クロツグミとピアノとフラメンコと戦争

もうひとつ趣味がありました。

ここ数年、いろんな事情で遠ざかっていましたが、繕いものも峠を越えたので、お金がなくて長い間調律していないピアノですが、このところ毎日1時間ばかり弾いています。

きょうも弾いていたら、なにかチュクチュク音がします。なんだろう、と思ってピアノを弾くのをやめたら、鳥の声でした。「あ、クロツグミ!」。外をみると、ベランダのすぐ前の木で、美しい声で、クロツグミがさえずっているのです。

 

そして、見えた! 青葉の茂みから出て枝にとまったんです! すぐ飛び立っていきましたけど。黒っぽい、灰色の小鳥です。クロツグミだと、お腹に、ツグミ特有のまだら模様があるのですけれど、それは、わかりませんでした。

双眼鏡を取りにいく間はありませんでした。残念!

クロツグミは、ほかの鳥の真似もするらしいので、ピアノの音を聞いて、近くにやってきたんじゃないかしらん。なんて、ほくそ笑んでいます。

 

ピアノは長い間先生にもついて習ってきて、若いお弟子さんたちにまじって、高齢のわたしも、5,6年前までピアノの発表会に出ていました。子どもの頃、10年。退職後すぐに再開したので、ピアノ歴30年以上になります。先生は、とても素敵なプロのピアニスト。年寄りが発表会に出るって、若い人やお母さんを励ましていたんですって。年とっても、ピアノ弾いてもいいんだって。そんなこと聞きました。

最後の発表会で弾いたのは、下手くそですけど、ベートーベンの「悲愴」です。発表会は、ほんとうは暗譜で弾かないといけないのですが、70歳になってからは、わたしだけ楽譜を見て弾いてもいいことにしてもらっていました。だって、覚えられないんですもの。

コロナのおかげで、暇とお金があれば、私はまだピアノ弾きたいんだ、ということがわかりました。

 

結局、好きなことや、好きなものは、変わらないんだな、って思います。本を読むこと、書くこと、あれこれ工夫すること、そして、ピアノを弾くこと。

とはいえ、やりたかったけれど、結局果たせなかったこともあります。たとえば、フラメンコ。

 

50代、60代のころは、フラメンコやりたいな、と思っていましたが、忙しさと勇気の不足で、希望は、はたせませんでした。

夫に「フラメンコ、やりたいねん。」と言うと、「やめたほうがいいよ。あれは、首が飛ぶよ」ですって。動きがはげしいですからね。

娘に言うと「いいんちゃう。フラメンコは太っててもできるからね」と言います。

本気とも、冗談ともつかぬおことば。

 

娘は、たとえば、わたしが甘いものを前にして「うーん、これやめとこかな。太るからなあ」とためらっていると、すかさず「えっ!」と大げさに驚いて見せます。そして、「太るからって…、もう太ってるやん」と言って、わたしのことばの不正確さを厳密に指摘する、そういう娘です。娘も大阪出身ですからね、くだらない冗談だけは、頭がまわる人なんですね。 

 

ところで、フラメンコ、と言えば、フラメンコを続けている友達のIさんから電話がありました。「トモリン、元気?」

 

このところ、すっかり出不精になっているので、家にいるときも、実は、外出着を着ています。出かけることも多い生活だったので、普段着はあまりなくて、外出着の方がたくさんあるのです。そして、「出かけへんし、もういつ死ぬかもわからんから、家でもきれいなのを着よう!」と思いついて、きれいなものを着ることにしたんですね。

こういうコロナ対策もあるんじゃないですか。気分がよろしくなります。

 

そのお友達に、そんなことを言うと、「わたしもね、フラメンコのドレスを着てるのよ。」と言います。彼女の家には、とても大きな鏡があります。その前で、ドレスを着て踊っているのでしょう。彼女は、わたしより少し年上で80歳過ぎ。娘さんから、外出しないように、と言われているとのこと。フラメンコをやってきただけあって、後ろ姿なんか、すらりとして、若い人みたいです。(わたくしめの、よたよたとは、まるっきりちがいます。)

彼女は、趣味人で、何でもできる人です。絵もとても上手で、賞をとってるし、毛筆も上手だし、シャンソンもならっています。とても繊細な、感性のゆたかな人です

お連れ合いは、もう10年以上前に、亡くなられて、今は一人暮らしです。

 

ただ、その彼女には、幼い頃のトラウマがあります。

戦争が終わったのは彼女が9歳の時。静岡県の浜松に住んでいたのですが、空襲もはげしくなるし、1945年の5月に、一家あげて、満州に移住されたのです。そのころと言えば、もう敗戦必至ということで、満州から、軍人や役人の家族は、情報を先に得て、日本に帰国し始めていたころです。

移住してたった三ヶ月で、彼女の一家は、満州から逃亡生活をすることになってしまいました。

その中で、赤ん坊の双子の妹が、飢えのため、おぶっていた彼女の背中で死んでしまうのです。「あんなに、ふっくらしていた手が、しわしわになってしまって…。かわいい盛りだったのに…。」と彼女は絶句します。お母さんとも生き別れになり、死に目にあえませんでした。浜松に帰っても、家も、もうないし、大変な苦労をされたようです。

 「だから、また戦争になると思うと、体が震えてくるの」と言います。

 「コロナを戦争という人がいるけど、コロナと戦争はちがう。戦争はもっと悲惨。」とも言います。

 

 そのトラウマは、80歳を過ぎても消えないで、彼女を苦しめつづけている様子です。

 でも、そんな逆境にあいながら、たくましく、美しく生きてきたなあと、私は尊敬しています。