あやの里だより №39 村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき 』 ⓵ 

 村上春樹さんが、自分の父親のこと、そして、自分と父親との関わりについて書いた、手のひらに載るような小さな本。素朴な雰囲気の挿絵がたっぷりついている。(『猫を棄てる 父親について語るとき 』2020年刊)

小説と違う文体。物語性を一切排除した、淡々とした語り口。それは却って、村上さんという作家の作品の底流にあるものを浮かび上がらせているように思えて、いささか感動した。

作家にとって、父のこと、そして父とのことは、いつかは書かねばならない課題だったことが、よくわかる。

 

 作家が思いだすのは、子どもの頃、父と一緒に猫を棄てに行ったときのことだ。どうして棄てることになったのか、思いだせない。ともあれ、父と二人で、自転車で、2キロほど離れた海辺に猫を棄てに行ったのだ。

ところが、驚いたことに、猫は、自分たちが家に戻るより先に、家に帰りついていた。その時の父の呆然とした顔、やがてそれが感心した表情に変わり、最後にはいくらかほっとした顔になったことを、息子は記憶にとどめる。

猫はそののち、棄てられることはなかった。まだ避妊手術などというものがなかった時代だ。猫はよく棄てられていた。

 

 父の実家は、京都のかなり大きな「安養寺」という寺で、祖父がその住職をしていた。父は、男ばかりの6人兄弟。小さい頃、一時どこかのお寺に小僧として出されたらしい。おそらくそこの寺の養子になる含みをもって。

でも、理由はわからないが、実家に戻された。

猫がもどっていることを知ったときの父の「ほっとしたような」表情の奥に、息子は、父自身の「捨てられた」という子供時代の心の傷を垣間見る。そういう傷は一生に影として残るものではないかと、一人息子であった作家は考えるのである。

 

さて、作家には、父との長く重い葛藤があった。

父は、戦争の時代に青春を生き、三度招集された。戦争の末期、父は三度目の招集をうけるが、国内勤務だった。父は辛うじてその大きな悲惨な戦争を生き延びることができたわけだが、そのとき父は27歳になっていた。

父は、僧侶になるための専門学校を卒業した後、京都帝国大学に入学していて、戦後京大に復学した。大学院に進んだが、年も食っていたし、結婚し、息子が生まれたために学問を断念し、生活費を得るため高校の国語教師の職についた。

父は、自分の、戦争で断たれた学問への強い欲求の裏返しとして、一人息子に対して優秀であれと期待した。

しかし、息子は父の期待に応えることができない。息子にとって「学校の授業はおおむね退屈だったし、その教育システムはあまりに画一的、抑圧的だった。」

また息子には、「机にしがみついて与えられた課題をこなし、試験で少しでも良い成績をとることよりは、好きな本をたくさん読み、好きな音楽をたくさん聴き、外に出て運動をし、友だちと麻雀を打ち、あるいはガール・フレンドとデートをしている方が、より大事な意味を持つ」ことがらに思えたのである。

作家は言う。「もちろんそれで正しかったんだと、今になってみれば確信をもって断言できる。」

そして、こう考える。「おそらく僕らはみんな、それぞれの世代の空気を吸い込み、その固有の重力を背負って生きていくしかないのだろう。そしてその枠組みの傾向の中で成長していくしかないのだろう。良い悪いではなく、それが自然の成り立ちなのだ。」

 

しかし、期待を裏切る息子に対して、父は「慢性的な不満を抱く」ようになり、一方息子は慢性的な痛み、「無意識的な怒りを含んだ痛み」を感じるようになっていく。

息子が成長し、固有な自我を身につけていくにつれ、息子と父親との間の心理的な軋轢(あつれき)は次第に強く、明確なものになっていった。

作家は言う。「我々はどちらも、性格的にかなり強固なものを持っていたのだと思う。お互い、そう易々とは自分というものを譲らなかったということだ。」

そして、詳しくは書かれないが、息子が職業小説家になってからは、いろいろややこしいことが持ち上がって、父との関係は「より屈折したものになり、最後には絶縁に近い状態となった。」

「父とようやく顔を合わせて話をしたのは、彼が亡くなる少し前のことだっ

た。… そこで父と僕は ―彼の人生のほんの短い期間ではあったけれど― ぎこちない会話を交わし、和解のようなことをおこなった。」 

その時、父は90歳を迎え、作家は60歳近くになっていた…。

 

 ところで、作家と父のあいだには、別の重い葛藤があった。

 作家の記憶に残る父の思い出は、父が毎朝、菩薩(ぼさつ)に向かって長い時間、目を閉じて熱心にお経(きょう)を唱えていたことだ。菩薩は、小さな円筒形のガラスケースに収まっていた。父は、一日たりともその「おつとめ」を怠(おこた)らなかった。そして、父の背中には、簡単には声をかけがたいような厳しい雰囲気が漂っていた。

 

 作家は、子供の頃、一度父に尋ねたことがあった。誰のためにお経を唱えているのかと。すると、父は答えた。「前の戦争で死んでいった人たちのためだと。そこで亡くなった仲間の兵隊や、当時は敵であった中国の人たちのためだと。」

父はそれ以上説明しなかった。

そして息子の中にも、それ以上尋ねることを阻(はば)む何かがあった…。 

                   ⇒「あやの里だより」№40につづく。