あやの里だより №40 村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき 』 ②

 

一度だけ、父は息子に、自分の属していた部隊が、捕虜の中国兵を処刑したことがあると、語ったことがあった。作家がまだ小学校の低学年のころだ。

父はそのときの処刑の様子を淡々と語った。

「中国兵は、自分が殺されるとわかっていても、騒ぎもせず、恐がりもせず、ただじっと目を閉じて静かにそこに座っていた。そして斬首(ざんしゅ)された。実に見上げた態度だった、と父は言った。彼は斬殺(ざんさつ)されたその中国兵に対する敬意を―おそらくは死ぬときまでー深く抱き続けていたようだった。」

 

この時期、中国大陸においては、殺人行為に慣れさせるために、初年兵や補充兵に命令し、捕虜となった中国兵を処刑させることは珍しくなかったようなのだ。父が、ただそばで中国兵が処刑されるのを見ていただけなのか、もっと深く関与させられたのか、作家にはわからなかった。しかし、いずれにせよ、その出来事が父の心に―兵であり僧であった父の魂に―大きなしこりとなって残ったのはたしかなことのように思える。

一方、父の話をきいた作家の心にも、軍刀で人の首がはねられる残忍な光景が、強烈に焼きつけられることになった。

 

そして作家は考える。「父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを …

息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。人の心の繋がりと

いうものはそういうものだし、また歴史というものもそういうものなのだ。… その内容がどのように不快な、目を背(そむ)けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。そうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるだろう。父は戦場での体験についてほとんど語ることがなかった。 … しかしこのことだけは、たとえ双方の心に傷となって残ったとしても、何らかの形で、血を分けた息子である僕に言い残し、伝えておかなくてはならないと感じていたのではないか。」

 

父は1917年(大正6年)の生まれ。父が物心つく頃、昭和(1926年~1989年)のどんより暗い経済不況がはじまった。やがて時代は、泥沼の対中戦争、悲劇的な第二次世界大戦へとつづく。 

父は6人兄弟の次男だった。うち三人は戦争にとられたが、三人とも奇跡的に生き残った。一人はビルマ戦線で生死の境をさまよい、一人は予科練特攻兵の生き残りであり、作家の父も危うく九死に一生を得た身だった。

 父は、1938年、仏教の専門学校在学中のとき、20歳で、はじめて徴兵された。父の配属されたのは、第16師団に所属する歩兵第20連隊だった、と作家は長い間思い込んでいた。そしてそのせいで、父の軍歴を調べようと「決心」するまでに、けっこう長い期間がかかった。父の死後5年ばかりたって、やっと調査に着手することができた…。

なぜか?

「それは、歩兵第20連隊が、南(なん)京(きん)陥落のときに、一番乗りをしたことで名を上げた部隊だったからだ。」(南京は、当時の中国の首都。

この部隊は京都出身の部隊だったが、その行動にはとかく血なまぐさい評判がついてまわっており、作家はひょっとしたら父親がこの部隊の一員として、南京攻略に参加したのではないかという疑念を長いあいだ持っていた。

そのせいもあって、作家は従軍記録を調べたり、戦争中の話を父に詳しく訊こうという気持ちになれなかったのだ。

そして、何も語らないまま、父は90歳で亡くなってしまった。 

ところが、作家が、父の死後調べてみると、父が入隊したのは歩兵第20連隊ではなく、主に軍馬の世話をする輜重兵(しちょうへい)第16連隊だった。また父が入隊したのは1938年。南京攻略は1937年。そこで、父は南京戦には、参加しなかったことがわかったのだ。そのことを知って、作家は「ふっと気がゆるんだというか、ひとつ重しが取れたような感覚があった。」 

 

調べてみると、父の所属した部隊は、上海(しゃんはい)上陸後、戦闘を重ねながら、すさまじい距離を移動したことがわかった。

「ろくに機械化されず、燃料の十分な補給もままならない戦闘部隊―馬がほとんど唯一の動力だった―がこれだけの距離を進むのは大変な苦行だったに違いない。戦場では補給がおいつかず、糧食(りょうしょく)や弾薬が慢性的に不足し、衣服もぼろぼろになり、不衛生な環境でコレラを始めとする疫病(えきびょう)が蔓延(まんえん)し、深刻な状況だったという。歯科医が不足していたために、兵士の多くは虫歯に悩まされた。  

… 当時の第20連隊の兵士たちの残した手記を読むと、彼らの置かれた状況の悲惨さがひしひしとうかがえる。そんな中で虐殺行為は残念ながらあったと率直に証言する人もいれば、そんなものはまったくなかった、ただのフィクションだと強く主張する人もいる。いずれにせよ、そのような血なまぐさい中国大陸の戦線に、20歳の父は輜重兵(しちょうへい)として送り込まれている。ちなみに輜重兵というのは補給作業に携わり、主に軍馬の世話を専門とする兵隊のことだ。自動車や燃料が慢性的に不足していた当時の日本軍にとって、馬は重要な輸送手段だった。おそらくは兵隊なんかよりも大切な存在だった。輜重兵は基本として前線の戦闘には直接参加しないが、だから安全というわけではない。軽武装のために(多くは銃剣を携行(けいこう)するだけだった)、背後にまわった敵に襲撃され、甚大(じんだい)な被害を出すことも多くあった。」    

 

父は、この最初の兵役を1年でおえたが、1941年9月に二度目の招集をうける。帰属部隊は歩兵第20連隊。ところが、なぜか父は、11月に招集解除される。12月8日の太平洋戦争開始の直前だった。

⇒「あやの里だより」№41につづく。