憲法さん 大好き バーバのつぶやき 1

実は、わたくしめ、憲法さんにぞっこんなんですよ。だれでも落ちこんだ時は、憲法さんに声をかければ、いいんですよ。憲法さんは心がひろいですからね。

でも、こんなに憲法さんに入れ込むようになってから、まだ日が浅いんです。前は、憲法さんのことがよくわかっていませんでしたからね。まあ、まだ勉強中の身でありましてね、今でもそんなによくはわかっておりませんけど…。

 

日本国憲法の三つの原則って、知ってます? 「主権は国民にある」ということと「平和主義」ということと「基本的人権の尊重」って言われてるでしょ。

でも、この三つの原則の上に、肝心かなめの大原理があって、それが、個人の尊重、ということだったんですねえ。

三つの原則って、まず、わたしたちこそが国の主人公で、国のことを自分たちで決められる、ってことですわね。つぎに、わたしたちは平和じゃなきゃ生きていけないってことだし、それから、どんな人にもその人らしく生きる権利が保障される、ってことですわね。

じゃあ、それは、なんのためか、って言うと、わたしたち一人ひとりの幸福のためにだった、ってことになりますわ。なるほどねえ。

そう考えると、おらほの憲法様って、ほんと、すごいですわねえ。

憲法さんの第13条にも、ちゃんと書いてありましたわ。

「すべて国民は個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

 

法律ですからね、ちょっと堅苦しいけど、立派じゃあありませんか。やっぱりほれぼれしますねえ。つまり、わたしたちは、一人ひとり「生命と幸福追求の権利」が保障されてるんですねえ。

 

ところで、ですね、個人の尊重って、一言で言うけど、具体的に言ったら、どういうことなんでしょうねえ。

一人ひとりを尊重するってね、だれでも自分勝手していい、ってことじゃないですよ。ちゃんと13条で「公共の福祉に反しない限り」って、念をおしてたでしょ。12条でも「濫用(らんよう)」するな、やたらに権利をふりまわしちゃいけないと言ってますわ。

「公共の福祉」って、「みんなの幸せ」って、意味ですよね。つまり、憲法さんは、あなたを個人として尊重するけど、それは、ほかの人の幸福を邪魔しない限りだよ、って、バチッとクギをさしてるんですよ。

これも、憲法さんのえらいところですねえ。自分がいくら人を殴りたい、と思っても、殴られる人の身になりなさいよ、お互いどうし大事にしあいなさいよ、って言ってるんですね。だからいわゆる「利己主義」―自分さえよければいい、ってのと、ぜーんぜんちがうんですよね。

 

でもねえ、さらに言いますとね、どんな人でも個人として大切にされる、って、どういうことでしょうね? バーバもね、勉強して少しわかってきたんですけどね、人って、みんなちがうでしょ。好きなことも、何が幸せかってことも、人さまざまですよね。ほんとうに…。ごきぶりを飼うのが好きな人だっているんですよ! それでも、ほかの人に迷惑をかけないかぎりは、その人の自由を認めてあげないといけない、ってことでしょうね、たぶん。

そしてね、どんな人でも、ということは、社長だとか、金持ちだとか、学校の成績がいいとか、スポーツができるとかいう人だけじゃなくて、貧乏でも、学校の成績が悪くても、病気でも、身体に障害があっても、大切な存在だってことになりますよね。それに、だれだって、いつ交通事故にあって障害者になるかもしれないし、重い病気になるかわからないし、だれでもみ~んな年寄りになるでしょ。

 

まだ大事なことがありましたわ。世の中は、おおむね力のある人や多数意見の人が力を持っているでしょ。国会でも、会社でも、組合でも、学校でも、それから家の中でも、親と子ども、男と女の間でもね。

でもね、どんな人でも尊重される、ってことは、力の弱い人や、少数意見の人も、大切にしなきゃいけないよ、ってことになりますよ。わたくしめも、そうなんだ、ってわかったときは、感動しましたよ。

ですからねえ、自分のことを、頭が悪くて、だらしがなくて、なさけないだめな人間だと思っている人でも、それでも、あんたは大切な人だ、自分らしく、好きなように生きていいんだよ、って憲法さんは言ってくれてるんです。

わたくしめもね、はあ~、おらって、どうしようもねえ、なさけねえバカだって、ちょくちょく落ちこむんですけどね、それでもいいんだよ、がんばりな、って憲法さんがそっと励ましてくれるんですよ。すごいと思いません?

 
 

そんなわけでね、「個人の尊重」が今の憲法さんの大原理であるってことは、つくづく、大切なことだと思うんですね!

次号も読んでくださるかしらん。

まだ言いたいことがいろいろあるのよ。

あやの里だより №41 村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき 』 ⓷

 

太平洋戦争の火ぶたが切られたあと、父が離隊した歩兵第20連隊は、フィリピン攻撃に向かった。12月、ルソン島に上陸を試みようとして、米比軍の激しい抵抗にあい、多大な犠牲を出した。ルソン島に上陸すると、すぐにバターン半島ルソン島中西部の半島)攻略戦に出動を命じられる。

しかし、圧倒的に優勢な米軍の火力の前に壊滅的な打撃を被(こうむ)ることになった。装備不十分なまま前線に送り込まれたために、悲惨な結果がもたらされた。歩兵第20連隊は、密林の中で逆に包囲され、激しい集中砲火に晒(さら)され、最新鋭の戦車群に蹂躙(じゅうりん)されて、ほぼ全滅したのだ。

 

歩兵第20連隊が所属する第16師団は、ほぼ全滅したあと再編成され、マニラに駐屯。戦局が悪化した1944年4月に、マニラ南方のレイテ島に送られる。

しかし、「第16師団は、米軍の激しい艦砲射撃と、上陸部隊との水際での戦闘で人員の半数を失い、その後内陸部に退(しりぞ)いて抵抗をおこなったが、補給路を完全に断たれ、後方からゲリラに襲撃され、ばらばらに敗残兵(はいざんへい)となった多くの兵士が飢餓(きが)とマラリアのために倒れていった。

とりわけ飢餓は激しく、人肉食もあったと言われている。勝ち目のない、類を見ないほど悲惨きわまりない戦いであり、当初1万8000名を数えた16師団の生存者は、僅か580名に過ぎなかった。戦死者は実に96パーセントを超えている。」

 

作家は考える。

「もし父が違う運命をたどり、かつて所属していた第16連隊の部隊と共にフィリピンに送られていたなら、どちらかの戦場でまず間違いなく―バターンでなければ、レイテで、レイテでなければ、バターンで―戦死を遂げていただろうし、そうなればもちろんこの僕もこの世界には存在していなかったことになる。おそらく『幸運なことに』と言うべきなのだろうが、しかし自分一人がいのちを取りとめ、かつての仲間の兵隊たちがそうして遠くの南方の戦場で空しく命を落としていったことは(その遺骨のうちには、今でも野ざらしになっているものも少なからずあるだろう)、父にとって大きな心の痛みとなり、切実な負い目となったはずだ。そのことを考えると、父が、毎朝、長い時間じっと目を閉じ、心を込めてお経を唱えていたことがあらためて腑に落ちる。」

 

また、作家の母は、大阪の船場(せんば)の生まれだが、米軍の空襲でそっくり店を失った。そして、米軍のグラマン艦載機から機銃掃射受け、大阪の街を逃げ回ったことをずっと記憶していた。さらに、母の婚約者は戦死している。

作家は思う。

「もし父が兵役解除されず、フィリピン、あるいはビルマの戦場に送られていたら…もし音楽教師をしていた母の婚約者がどこかで戦死を遂げなかったら…と考えていくととても不思議な気持ちになってくる。もしそうなっていれば、僕という人間はこの地上には存在しなかったわけなのだから。そしてその結果、当然ながら僕というこの意識は存在せず、従って僕の書いた本だってこの世界には存在しないことになる。そう考えると、僕が小説家としてここに生きているという営み自体が、実態を欠いたただの儚(はかな)い幻想のように思えてくる。… 」

 

「我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実としてみなして生きているだけのことなのであるまいか。

言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換不可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。」

           

 この小さな本の「あとがき」で、作家はこう書く。

「僕がこの文章で書きたかったことのひとつは、戦争というものが一人の人間―ごく当たり前の名もなき市民だ―の生き方や精神をどれほど大きく深く変えてしまえるかということだ。そしてその結果、僕がこうしてここにいる。父の運命がほんの僅かでも違う経路を辿っていたなら、僕という人間はそもそも存在していなかったはずだ。歴史というものはそういうものなのだ―無数の仮説の中からもたらされた、たった一つの冷厳な現実。

 歴史は過去のものではない。それは意識の内側で、あるいは無意識の内側で、温もりを持つ生きた血となって流れ、次の世代へと否応なく持ち運ばれていくものなのだ。そういう意味合いにおいて、ここに書かれているのは個人的な物語であると同時に、僕らの暮らす世界全体を作り上げている大きな物語の一部でもある。ごく微小な一部だが、それでもひとつのかけらであるという事実に間違いはない。」 

 

 また作家は父との縁について考える。長年の断絶のあとの父との再会の場で、父の痩せた姿を前にして、作家が否応なく感じさせられたのは、「考え方や、世界の見方は違っても、僕らのあいだを繋ぐ縁のようなものが、ひとつの力を持って僕の中で作用してきたことは間違いのないところだった。 … たとえば、僕らはある夏の日、香露園の海岸まで一緒に自転車に乗って、一匹の縞柄の雌猫を棄てに行ったのだ。そして僕らは共に、その猫にあっさりと出し抜かれてしまったのだ。何はともあれ、それはひとつの素晴らしい、そして謎めいた共有体験ではないか。そのときの海岸の海鳴りの音を、松の防風林を吹き抜ける風の香りを、僕は今でもはっきり思い出せる。そんな一つ一つのささやかなものごとの限りない集積が、僕という人間をこれまでにかたち作ってきたのだ」と。        〈この項終わり〉

あやの里だより №40 村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき 』 ②

 

一度だけ、父は息子に、自分の属していた部隊が、捕虜の中国兵を処刑したことがあると、語ったことがあった。作家がまだ小学校の低学年のころだ。

父はそのときの処刑の様子を淡々と語った。

「中国兵は、自分が殺されるとわかっていても、騒ぎもせず、恐がりもせず、ただじっと目を閉じて静かにそこに座っていた。そして斬首(ざんしゅ)された。実に見上げた態度だった、と父は言った。彼は斬殺(ざんさつ)されたその中国兵に対する敬意を―おそらくは死ぬときまでー深く抱き続けていたようだった。」

 

この時期、中国大陸においては、殺人行為に慣れさせるために、初年兵や補充兵に命令し、捕虜となった中国兵を処刑させることは珍しくなかったようなのだ。父が、ただそばで中国兵が処刑されるのを見ていただけなのか、もっと深く関与させられたのか、作家にはわからなかった。しかし、いずれにせよ、その出来事が父の心に―兵であり僧であった父の魂に―大きなしこりとなって残ったのはたしかなことのように思える。

一方、父の話をきいた作家の心にも、軍刀で人の首がはねられる残忍な光景が、強烈に焼きつけられることになった。

 

そして作家は考える。「父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを …

息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。人の心の繋がりと

いうものはそういうものだし、また歴史というものもそういうものなのだ。… その内容がどのように不快な、目を背(そむ)けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。そうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるだろう。父は戦場での体験についてほとんど語ることがなかった。 … しかしこのことだけは、たとえ双方の心に傷となって残ったとしても、何らかの形で、血を分けた息子である僕に言い残し、伝えておかなくてはならないと感じていたのではないか。」

 

父は1917年(大正6年)の生まれ。父が物心つく頃、昭和(1926年~1989年)のどんより暗い経済不況がはじまった。やがて時代は、泥沼の対中戦争、悲劇的な第二次世界大戦へとつづく。 

父は6人兄弟の次男だった。うち三人は戦争にとられたが、三人とも奇跡的に生き残った。一人はビルマ戦線で生死の境をさまよい、一人は予科練特攻兵の生き残りであり、作家の父も危うく九死に一生を得た身だった。

 父は、1938年、仏教の専門学校在学中のとき、20歳で、はじめて徴兵された。父の配属されたのは、第16師団に所属する歩兵第20連隊だった、と作家は長い間思い込んでいた。そしてそのせいで、父の軍歴を調べようと「決心」するまでに、けっこう長い期間がかかった。父の死後5年ばかりたって、やっと調査に着手することができた…。

なぜか?

「それは、歩兵第20連隊が、南(なん)京(きん)陥落のときに、一番乗りをしたことで名を上げた部隊だったからだ。」(南京は、当時の中国の首都。

この部隊は京都出身の部隊だったが、その行動にはとかく血なまぐさい評判がついてまわっており、作家はひょっとしたら父親がこの部隊の一員として、南京攻略に参加したのではないかという疑念を長いあいだ持っていた。

そのせいもあって、作家は従軍記録を調べたり、戦争中の話を父に詳しく訊こうという気持ちになれなかったのだ。

そして、何も語らないまま、父は90歳で亡くなってしまった。 

ところが、作家が、父の死後調べてみると、父が入隊したのは歩兵第20連隊ではなく、主に軍馬の世話をする輜重兵(しちょうへい)第16連隊だった。また父が入隊したのは1938年。南京攻略は1937年。そこで、父は南京戦には、参加しなかったことがわかったのだ。そのことを知って、作家は「ふっと気がゆるんだというか、ひとつ重しが取れたような感覚があった。」 

 

調べてみると、父の所属した部隊は、上海(しゃんはい)上陸後、戦闘を重ねながら、すさまじい距離を移動したことがわかった。

「ろくに機械化されず、燃料の十分な補給もままならない戦闘部隊―馬がほとんど唯一の動力だった―がこれだけの距離を進むのは大変な苦行だったに違いない。戦場では補給がおいつかず、糧食(りょうしょく)や弾薬が慢性的に不足し、衣服もぼろぼろになり、不衛生な環境でコレラを始めとする疫病(えきびょう)が蔓延(まんえん)し、深刻な状況だったという。歯科医が不足していたために、兵士の多くは虫歯に悩まされた。  

… 当時の第20連隊の兵士たちの残した手記を読むと、彼らの置かれた状況の悲惨さがひしひしとうかがえる。そんな中で虐殺行為は残念ながらあったと率直に証言する人もいれば、そんなものはまったくなかった、ただのフィクションだと強く主張する人もいる。いずれにせよ、そのような血なまぐさい中国大陸の戦線に、20歳の父は輜重兵(しちょうへい)として送り込まれている。ちなみに輜重兵というのは補給作業に携わり、主に軍馬の世話を専門とする兵隊のことだ。自動車や燃料が慢性的に不足していた当時の日本軍にとって、馬は重要な輸送手段だった。おそらくは兵隊なんかよりも大切な存在だった。輜重兵は基本として前線の戦闘には直接参加しないが、だから安全というわけではない。軽武装のために(多くは銃剣を携行(けいこう)するだけだった)、背後にまわった敵に襲撃され、甚大(じんだい)な被害を出すことも多くあった。」    

 

父は、この最初の兵役を1年でおえたが、1941年9月に二度目の招集をうける。帰属部隊は歩兵第20連隊。ところが、なぜか父は、11月に招集解除される。12月8日の太平洋戦争開始の直前だった。

⇒「あやの里だより」№41につづく。

あやの里だより №39 村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき 』 ⓵ 

 村上春樹さんが、自分の父親のこと、そして、自分と父親との関わりについて書いた、手のひらに載るような小さな本。素朴な雰囲気の挿絵がたっぷりついている。(『猫を棄てる 父親について語るとき 』2020年刊)

小説と違う文体。物語性を一切排除した、淡々とした語り口。それは却って、村上さんという作家の作品の底流にあるものを浮かび上がらせているように思えて、いささか感動した。

作家にとって、父のこと、そして父とのことは、いつかは書かねばならない課題だったことが、よくわかる。

 

 作家が思いだすのは、子どもの頃、父と一緒に猫を棄てに行ったときのことだ。どうして棄てることになったのか、思いだせない。ともあれ、父と二人で、自転車で、2キロほど離れた海辺に猫を棄てに行ったのだ。

ところが、驚いたことに、猫は、自分たちが家に戻るより先に、家に帰りついていた。その時の父の呆然とした顔、やがてそれが感心した表情に変わり、最後にはいくらかほっとした顔になったことを、息子は記憶にとどめる。

猫はそののち、棄てられることはなかった。まだ避妊手術などというものがなかった時代だ。猫はよく棄てられていた。

 

 父の実家は、京都のかなり大きな「安養寺」という寺で、祖父がその住職をしていた。父は、男ばかりの6人兄弟。小さい頃、一時どこかのお寺に小僧として出されたらしい。おそらくそこの寺の養子になる含みをもって。

でも、理由はわからないが、実家に戻された。

猫がもどっていることを知ったときの父の「ほっとしたような」表情の奥に、息子は、父自身の「捨てられた」という子供時代の心の傷を垣間見る。そういう傷は一生に影として残るものではないかと、一人息子であった作家は考えるのである。

 

さて、作家には、父との長く重い葛藤があった。

父は、戦争の時代に青春を生き、三度招集された。戦争の末期、父は三度目の招集をうけるが、国内勤務だった。父は辛うじてその大きな悲惨な戦争を生き延びることができたわけだが、そのとき父は27歳になっていた。

父は、僧侶になるための専門学校を卒業した後、京都帝国大学に入学していて、戦後京大に復学した。大学院に進んだが、年も食っていたし、結婚し、息子が生まれたために学問を断念し、生活費を得るため高校の国語教師の職についた。

父は、自分の、戦争で断たれた学問への強い欲求の裏返しとして、一人息子に対して優秀であれと期待した。

しかし、息子は父の期待に応えることができない。息子にとって「学校の授業はおおむね退屈だったし、その教育システムはあまりに画一的、抑圧的だった。」

また息子には、「机にしがみついて与えられた課題をこなし、試験で少しでも良い成績をとることよりは、好きな本をたくさん読み、好きな音楽をたくさん聴き、外に出て運動をし、友だちと麻雀を打ち、あるいはガール・フレンドとデートをしている方が、より大事な意味を持つ」ことがらに思えたのである。

作家は言う。「もちろんそれで正しかったんだと、今になってみれば確信をもって断言できる。」

そして、こう考える。「おそらく僕らはみんな、それぞれの世代の空気を吸い込み、その固有の重力を背負って生きていくしかないのだろう。そしてその枠組みの傾向の中で成長していくしかないのだろう。良い悪いではなく、それが自然の成り立ちなのだ。」

 

しかし、期待を裏切る息子に対して、父は「慢性的な不満を抱く」ようになり、一方息子は慢性的な痛み、「無意識的な怒りを含んだ痛み」を感じるようになっていく。

息子が成長し、固有な自我を身につけていくにつれ、息子と父親との間の心理的な軋轢(あつれき)は次第に強く、明確なものになっていった。

作家は言う。「我々はどちらも、性格的にかなり強固なものを持っていたのだと思う。お互い、そう易々とは自分というものを譲らなかったということだ。」

そして、詳しくは書かれないが、息子が職業小説家になってからは、いろいろややこしいことが持ち上がって、父との関係は「より屈折したものになり、最後には絶縁に近い状態となった。」

「父とようやく顔を合わせて話をしたのは、彼が亡くなる少し前のことだっ

た。… そこで父と僕は ―彼の人生のほんの短い期間ではあったけれど― ぎこちない会話を交わし、和解のようなことをおこなった。」 

その時、父は90歳を迎え、作家は60歳近くになっていた…。

 

 ところで、作家と父のあいだには、別の重い葛藤があった。

 作家の記憶に残る父の思い出は、父が毎朝、菩薩(ぼさつ)に向かって長い時間、目を閉じて熱心にお経(きょう)を唱えていたことだ。菩薩は、小さな円筒形のガラスケースに収まっていた。父は、一日たりともその「おつとめ」を怠(おこた)らなかった。そして、父の背中には、簡単には声をかけがたいような厳しい雰囲気が漂っていた。

 

 作家は、子供の頃、一度父に尋ねたことがあった。誰のためにお経を唱えているのかと。すると、父は答えた。「前の戦争で死んでいった人たちのためだと。そこで亡くなった仲間の兵隊や、当時は敵であった中国の人たちのためだと。」

父はそれ以上説明しなかった。

そして息子の中にも、それ以上尋ねることを阻(はば)む何かがあった…。 

                   ⇒「あやの里だより」№40につづく。

あやの里だより №38 豆腐屋さんと自家製厚揚げの巻

 購読している新聞に、自家製厚揚げの作り方が載っていた。それを読んで、意欲をもやした! 80歳でも、あたらしいことに挑戦なのだ(#^.^#)! 

 

 実は、18年前、隣部落の実家「あやの里」(これは、わたしが母親の名から、かってに名づけたもの)に引っ越したばかりの頃、その家で豆腐屋をするべえ、と空想したことがあった。少しは本気だった。部落の常会の飲み会でしゃべったことがあるから。そのとき、部落の人から「買いに行くよ」と言ってもらえたのを覚えている。

いろいろ豆腐屋の構想!を練ったが、なんだか市民活動で忙しくなって、豆腐屋になるに至らなかった。今でもちょっと残念な思いがある。

というか、わたしは、妄想にかられやすい質(たち)である。豆腐屋をしよう、と思うと、たちまち豆腐屋のイメージを沸かせて、家の前の納屋を改造しよう、あそこで豆を炊いてとか、間取りを考えたりするのだ。妄想だけで終わることが多い…。

 

 そのころ、近くの村落で、一人で豆腐屋をやっているおばさんがいると聞いて、娘と一緒に買いにいったことがある。ふつうの民家の、もと蔵(くら)だったような感じの家の土間で、おばさんは豆腐を作っていた。

つぶした大豆を大きな布袋にいれておいて、てこの原理で、長い柄をあげると、でっかい石が豆腐袋の上に落ちてきて、袋から豆乳がしたたり落ちる仕組みだった。自家製の大豆か、またはその部落の大豆かで作った豆腐で、なにしろ「おいしい」と評判だった。でも、それからしばらくして、そのおばさんは豆腐屋をやめたようだった。

 

松本市の中心部にもお豆腐屋さんはあった。用があって知人を訪ねた折、知人の奥さんがボールを持って買いに行くのに、ついていったことがある。おしゃべりしながら豆腐屋さんに行ったときの光景をありありと思いだす。10年ほども前のことになろうか。なんだかたのしかったなあ。

そのころすでに、そのお豆腐屋さんは週に2,3日、それも予約の人だけに売る、という店になっていた。その豆腐屋さんもとっくに店じまいし、一緒に豆腐を買いに行った奥さんも、そのご主人も亡くなってしまった。

 

 その昔、わたしが子どもの頃の、大阪の下町の商店街は、とても賑やかで、いろんなお店があったが、その中に、もちろん豆腐屋さんもあった。

 道草を食うのが好きな私は、学校が終わると、ちょっと遠回りになったが、商店街を通って家に帰るのが常だった。(忘れ物をしたときは、最短距離の、国道沿いの歩道を走って、取りに帰る。)

豆腐屋さんの店先の、大きな四角い金属の桶には、水の中に豆腐が何丁もゆらゆら浮かんでいる。おばちゃんは、水の中に手をつっこんで、壊れないように手のひらにお豆腐を載せて、そっと鍋にいれてくれるのだ。冬でも冷たい水を使うおばちゃんの手は真っ赤だった。店の奥の土間では、大きな天ぷら鍋で、お揚げさんをおばちゃんが揚げているのを見ることもあった。

思い起こせば、プラスティックなどと無縁のいい時代だった。

 

そもそも、スーパーができてから、世の中、変わっていった気がする。スーパーができ始めたころ、スーパーで買い物をすると、まるで自分が買い物マシーンになったような気がしたものだ。スーパーがお豆腐屋さんを駆逐し、市場も商店街もさびれさせた。つまらない世の中になってしまったものだ。

 

さて、あやの里のある部落の常会では、どこの豆腐がおいしいとか、どこのおやきがいちばんうまいとか、うどんをつくるなら、あそこの粉がいい、とかいう食べものの話がよく出た。私のお気に入りの豆腐は、生坂(いくさか)村(むら)の「かあちゃん豆腐」。母ちゃんたちががんばって、地元の大豆で作っている豆腐だ。(生坂村は、2005年の、政府主導の、半強制的な市町村合併のおり、自立を選んだ村である。)

 もうひとつお気に入りのお豆腐屋さんは松本市内のT豆腐店。豆腐コンクールでよく優秀賞をとる店で、友人がその豆腐屋で働いていることもあって、松本に行くときは、できるだけそこの豆腐を買って帰るようにしている。豆腐も揚げも国産大豆。国産大豆の揚げは、めったに売っていないので、揚げはこの店で大目に買うことが多かった。揚げは冷凍できる。

 

こういう思い出とともに、新聞のお料理面は、ただちにわたしに厚揚げを自分でつくる、という実践に導いた!

でも、揚げづくりって、拍子抜けするぐらい、かんたんだった。家で揚げると、国産の、昔のようにちゃんとしぼった菜種油を使うので、余計においしいわけだ。二回目からは、超うまくいった。

豆腐は、布巾などでよく水を拭いておくと油が跳ねないものだということを知った。新聞では、クッキングペーパーで豆腐を包んで水を切る、なんてことを書いてあったが、使い捨てを敵視しているバーバのことである。貴重な紙を、水を切るためだけに使うなどということは、恐ろしくてできない。

 まな板に豆腐をおいて、まな板をすこし斜めにしておいたら、豆腐の水が流れ出る。しばらくして、布巾で豆腐をしっかり拭けば何事もない。布巾は大して汚れない。ちょっと水で手洗いすればいいだけである。

(ついだが、紙タオルも、恐ろしい。ハンカチでふけばいいじゃないか。紙コップも、一杯の水のために存在し、捨てられる。紙使用大国の日本は、世界の森林の破壊に一役買っている。)

 

まあ、それはともかく、この自家製厚揚げと切り干し大根をお醤油で煮た。ベランダで長い間干しておいた切り干し大根をはじめて使ったのだ。とてもおいしく、またうっとり!してしまった。みなさまも、挑戦してくださいませ。

あやの里だより №37 村上春樹『職業としての小説家』 

最近読んでおもしろかった本の一冊に、村上春樹のエッセイ集『職業としての小説家』があります。わたしは村上春樹が好きで、彼の作品はほとんど読んできました。

大江健三郎も好きだったんですね。でも、まわりには、大江さんが好き、という人はほとんどいませんでした。文章がぐだぐだとまどろっこしいというか、わかりにくいとか、言われますね。確かにそうなんだけど、でも、それは彼独自の世界を表現するためにふさわしい表現方法であって、ちゃんと理解できます。

特に大江さんの初期から中期までの作品が好きですが、後期の作品もほぼすべて読み、評論やエッセイも読んできました。大江さんは、人間存在の深い所までおりていって、たじろがずその暗い底まで見る、繊細なんだけど揺るがない、ものすごく精神が強靭です。しかも、その眼は遠く世界にも開かれている、そんなところに惹かれていたと思います。

 

ところで、村上さんは、大江さんと全く違う作風ですね。なにしろ、読みやすい。一見難解なところは、ひとつもない。だから、彼の作品は、老若男女を問わず、国籍を問わず、多くの読者を獲得している。(それでも、村上さんはきらいだ、つまらない、という人もいます。好き嫌いは、それこそ個性的なものですね。)

村上さんは、平凡な一人の生活者でありつづけている作家です。彼の作品の特質は、そこにあるような気がします。彼は自分のことを、「僕はあまりにも個人的な人間でありすぎる」と言っています。あくまで、自分自身である、自分の心が肯定する以外の生き方をしない、またできない作家です。でも、そんなふうに生きるって、けっこうたいへんなことじゃないかしら。

そして、村上さんも、人間存在の「地下の暗闇」におりていく。その勇気がある。したたかで深い。そういう意味では、大江さんと同じ、精神の強靭さをもっていると思います。

(わたしは、村上さんを読むと、かつて若い頃、おのれを偽って、というか、自分自身を貫けず、あらぬ方向を選んでしまったことが何度もあったことが思いだされ、いまだに歯ぎしりするような後悔の念にとらわれたりするのです。)

 

さて、村上さんは、1960年代の末期、学園紛争の嵐の時代に学生だった人ですが、そのころのことを「小説家になった頃」の章でこう語っています。

「その激しい嵐が過ぎ去ったあと、僕らの心に残されたのは、後味の悪い失望感だけでした。どれだけそこに正しいスローガンがあり、美しいメッセージがあっても、その正しさや美しさを支えきるだけの魂の力が、モラルの力がなければ、すべては空虚な言葉の羅列に過ぎない。… 言葉には確かな力がある。しかしその力は正しいものでなくてはならない。少なくとも公正なものでなくてはならない。言葉が一人歩きだしてしまってはならない。」

おだやかな語り口だけど、厳しいひびきがある。そして、深く共感します。

「学校について」の章もおもしろかった。その中の「想像力の対極にあるのが効率です。」ということばも、印象的でしたね。

 

ところで、この本で知ったことですが、村上さんは、自分のことを長編作家だと言っていますが、その長編を何度も書き直しているんですね。そのことを詳しく書いています。うなりました。

昔、ロシアの世界的大作家トルストイが、かの大長編『戦争と平和』とか『アンナ・カレーニナ』などを何度も書き直した、ということを知って、驚いたものです。まるで神様しか持たないような、それこそ俯瞰する目で、地上にうごめく人間群像を深くとらえて描いていますが、一度筆を下ろしただけであのように完璧に書けるわけはないとは思うものの、あの長編を何度も書き直す、というのも、驚嘆にあたいします。

 

さて、わたしは、いま、隔月刊の市民グループの冊子『平和の種』に「憲法大好きバーバのひとりごと」という短い文を、なんと2年以上連載させてもらっていますが、いつもふうふうで、百万回!書き直しています。

まちがったことを言ってはいけないし、自分の力に及ばないことを書くので、それこそ、勉強もうんとしなくちゃいけないし、冷や汗もので書いているんですね。2カ月に一回。わずか3、4ページくらいのものなのに、「苦労の種」!なんです。

でもね、村上さんは、「大事なのは書き直すという行為そのもの」と言い切っているんです。そうか、自分が短いものでも百万回書き直すのは、いいことだったんだ!

 

ところで、村上さんは、「好きなこと」、自分にとって「たのしい」ことをする、ということも、とても大事にしています。

となると、わたしにとって、憲法のことを書くなんて、荷が勝ちすぎて、しんどい仕事なわけで…。とはいえ、だれかに命じられてやってる仕事でもない。なにしろ、憲法を変えられたくない、という強い気持ちがありますからー。

ほかの市民活動もしていますが、それらの仕事は、わたしにとって好きというより、むしろしんどい仕事です。だけど、たくさんの人との出会いが得られるなど、得難いたのしさもあった。とすると、何かしら意義を感じてやるんだけど、やはり楽しいから頑張ってきた、ということになるのかな。

そして、多くの人がわたしと同じように、無償の仕事を、しんどいけれど、進んでがんばってやっている。そして、やはり、人とつながる楽しさをそこに見いだしているんじゃないかしら。人にとっていちばんたのしいことは、結局、人とつながる、ということかもしれません。

だれの人生でも、なぜか、生きることは、一筋縄ではいかない、困難なものです。はた目にはどう映ろうと、わたしにとっても、たやすいものではなかった。ともあれ、大げさなようだけど、人は、その時代に生まれた運命をそれぞれ背負いつつ、それでも楽しく生きようとするものだ、ということになりましょうか。

あやの里だより №36 人にはこんな長所もある & 暮れの過ごし方の巻

 

人にはこんな長所もある & 暮れの過ごし方の巻   

薪ストーブを一日炊いていると、小さな家じゅう、あたたかくなります。先日、うっかりして、ストーブのそばに、前の日の、残った煮物の鍋をおいていたら、翌朝、煮物の上に白いカビが一面に浮いていました。

こまった!と思いましたが、物を捨てられない性質です。そのままにしていたら、まずいことに、連れにみつかってしまいました。「これはなんだ?」と言います。内心「しまった!」と思いましたが、手遅れ。でも、連れは、全然気にせず、食べるんです。「うまいぞ、ちょっと酸っぱいけど」と言いながら。

次の日、まだ残っている煮物を、恐る恐るちょこっと食べてみましたら、なるほど、発酵して少しすっぱくなっただけで、腐ったわけではないことがわかりました。

そして、そうだ、カレーにはトマトとか、酸味のあるものをいれるじゃないか、と気がつき、結局、その煮物はカレーに化けました。もちろん、炒めた玉ねぎやニンジンや、骨付鶏肉などは入れたんですよ。

その日の夕食は、カレーです。連れには、カレーに、発酵した煮物が入っていることは、内緒にしました。煮物に入っていたコンニャクは、わからないように小さく刻んでおきました。

でもね、なんだか、とてもおいしいカレーになったんです、ほんとうに。

つまり、連れの長所は、そのようなものでも、文句も言わずに食べてくれるという点です。すばらしいでしょ。ずっと前のことですが、牛乳がおかしくなっているのも「もったいない」と言って飲んで、別に下痢もしませんでした。これもすばらしかった! 食べ物を決して粗末にしない、地球にやさしい連れであります。

わたしは食い意地がはっているくせに、そのようなものを食べる勇気がないのです。戦争中の食糧難の時代に生まれ育って、なんでも好き嫌いなしに、ありがたくいただくんですけどね。でも、わたしの長所は、すこしすっぱくなったものも捨てないで、ちゃんとカレーにして食べる、ということになりゃしませんか?

 

ところで、最近、娘の友達が、連れの仕事の手伝いをしてくれているのですが、連れの薪割りの手伝いにも来てくれました。わたしがヨタヨタで役に立たなくなったからです。この方は、女優の田中裕子さんそっくりの美人さんで、わたしなどうっかり、本名じゃなく「ゆうこさん」と呼びたくなります。本名は、実はわたしと同じなんです。

うちの、小さい柴犬の老犬が、ベランダをよたよた歩いています。わたしが、「つくし(犬の名まえ)は、よたよたでしょ、もう歳だからね、目も見えないし、耳も聞こえないの。でもね、食欲だけはあるのよ。ね、太っているでしょ。わたしとおんなじなのよね。」と言いましたら、「ゆうこさん」は、「食欲があるって、いいことですよね。元気のもと」と言ってくれました。この方は、ときどき、ハッとするようなことを言ってくれます。「そっか、食欲があるってことはいいことなんだ」と、日頃、食欲がありすぎることを嘆いている私を励ましてくれました。まあ、勝手に励まされただけなんですけどね。

 

さて、庭師の連れは、ほとんど休みなしだった仕事がやっと一段落して、暮れは、薪割りのほかに庭の片付け。しめ飾りは、部落のしめ縄づくりの集まりに行って、作ってきました。そして、毎年のことですが、立派な門松もつくったんです。

わたしは、年末は、年明け早々に発行する『平和の種』という隔月刊の手作りの冊子の編集の仕事があり(3人でやってます。)、それに相当時間がかかるので、結構忙しいのです。中でも大仕事は、自分の原稿「憲法大好きバーバのつぶやき」。いつも苦心惨憺して書いています。これからお正月にかけて、頑張らねばなりません。

それから、野沢菜のつけこみ。と言っても、娘が、知人の畑から収穫させてもらい、洗って持ってきてくれたので、それを木の大きな桶に、塩と唐辛子と一緒に漬け込むだけ。楽なもんです。

以前は、まず隣のおばさんちの畑で野沢菜を収穫し、それを車でうちまで運んあと、三度ばかり水洗いしていました。たくさんだと、一日で終わらない、二日がかりの仕事になって、たいへんだったんです。(いつもよくしてもらったお隣のおばさんは、95歳くらいまで一人暮らしでしたが、今は、施設にいられます。)

この塩だけでつけたお菜は、春が過ぎると、だんだん黄色くなってきて、うっとりするぐらいおいしくなるんですよ。木の桶に住みついた酵母菌だかなんだかが、働いているんでしょうかね。(食べ物で、うっとりしやすいわたしです。)

娘が、このお菜の根っこのカブも、もらってきました。野沢菜のカブは、ひげ根がたくさんついていて、処理がいささか面倒なんですが、陶器のカメで酢漬けにしました。こうして、お漬物は、お菜の醤油漬け、赤かぶの酢漬け、大根の醤油漬け、先日娘が仕込んでくれた沢庵づけ、そして野沢菜漬け、といくつもできました。

漬物がいろいろあると、なんだかとても安心な、豊かな気持になります。

 

さて、数年前まで、隣部落の実家で、何家族も集まって、大々的なお餅つきをしていました。小さな子どもたちも何人もきて、とてもにぎやかだったんです。わたは、あんころもち担当でした。何しろのあんこ好き。地元の小豆を、沖縄の砂糖で炊いたあんこは、おいしいとヒョーバンだったんですよ。

でも、この小さい家に引っ越してからは、餅つきはよそですることになり、そこでついたお餅を娘がもってきてくれます。おせちも娘がつくり、娘の連れ合いが年越しそばを打ってくれて、大みそかにもってきてくれることになっています。有難いことです。

ところで、来年はどんな年になるでしょうか。

人間の幸せって、昔も今も変わらない。1年前に、アフガニスタンで命を落とした中村哲さんが口癖のように言っていたように、幸せとは「三度のご飯が食べられて、家族が仲よく故郷で一緒に生活できること」に尽きるかもしれません。「故郷で」ということは、戦争や飢饉や原発事故などで故郷を追われないで、ということですね。たしかに、これに勝る幸せはないんじゃないでしょうか。コロナ禍が早く終息して、こういう幸せが大切にされる世界になるようにと、つくづく思います。