№14 「世界中のバトンを落とすひとたちを誰もが否定しませんように」

わが家では、新聞は3紙取っている。現在A紙では、学問・文化欄で、寺井奈緒美という歌人のエッセイを連載中であるが、ある日、筆者のとてもすてきな短歌が載っていた。

 「世界中のバトンを落とすひとたちを誰もが否定しませんように」

 

 オリンピックは、今のところ来年に延期となったが、結局中止になるかもしれないというコロナ情勢である。

 わたしは、オリンピックは、世界中の、ほとんど知らない国の人々が活躍する姿を見られる場として、面白いと思ってきた。

 どの国であれ、若人たちの懸命さが美しい。

 ひそかに好きなのは、重量挙げである。持ち上げられるかどうか、こちらまではらはらし、持ち上げた瞬間、選手といっしょにほっとする。一瞬の芸術?のようなものか…。

  

 ただし、技を競うのはいいが、優勝者が、国旗掲揚と国歌演奏で表彰されるのは、大きらいである。

 

 ところで、5年に一度開かれるショパンコンクールという、世界で最も有名なピアノの国際コンクールも、コロナのため、今年の開催は中止になったと聞いた。

 このコンクールは、一流のピアニストへの登竜門として、世界中の若い人たちがしのぎを削っている。オリンピックと同様に、若い人たちが、すさまじい努力を積み重ねて、コンクールに臨む。

 オリンピックとちがうところは、一位になっても、国旗掲揚も、国歌演奏もないところだ。

 

 一方、オリンピックが音楽コンクールとちがうのは、莫大な金を要する国家的プロジェクトになってしまっている点だ。カネを巡る汚い動きもあるにちがいない。

そして、考える。

金賞の数を、国家間で競うのがオリンピックなのか。

入賞しなければ、だめなのか。

断じてNO,と言いたいのである。

 

オリンピックって、本来は、世界が平和につながるための催しではなかったのか。

どの国のどの選手も、勝った人も負けた人も、出場までに、苦しい努力を積み重ねてきたはずだ。

ならば、オリンピックは、国籍を問わず、すべての選手の努力に対する称賛とねぎらいの場でなければならない。

バトンを落として、あえなく下位に甘んじた選手に対しても、惜しみなく拍手が送られるような場でなければならない。

 

現在、世界は、いわゆる新自由主義という、競争と効率を万能とする考えにもとづくシステムにおおわれている。

 

そもそもわたしは、この競争と効率が大嫌いである。

なぜ、といっても、嫌いだからしかたがない。

肌に合わない、というやつだ。

 

でも、自分だけではなく、そもそも人間という生き物に、競争で他を蹴落とし、ムダを省いた効率を至上命令とする生き方は、肌に合わないと考えている。

 

今のわたしを知っている人は、まさか、と思うだろうが、子どもの頃、「走りは風のよう」と言われたものだ。(ホントです。)

でも、それでほめられるのは、嫌いだった。

 

走りが速いのも、遅いのも、人それぞれで、しかたがないではないか。

成績がいいのも、悪いのも、人それぞれで、しかたがないではないか。

いいとか、悪いとかいっても、所詮ちょぼちょぼである。

大した差はない。

 

となると、スポーツや音楽で競争するのは、どんなものか、と思う。

(ついでだが、特にばかばかしいのは、勉強で競争することである。このことについては、また書きたい。)

 

NHKのBSで、「駅ピアノ」あるいは、「空港ピアノ」という番組がある。駅や空港においてあるピアノを誰が弾いてもいいことになっている、そのようすを録画した番組である。いろんな国で、さまざまな国籍の、さまざまな年齢の人々が、上手、下手関係なしに音楽を楽しむ様子が見えて、たのしい。

音楽は、勝ち負けではないのである。

 

音楽もスポーツも、熟練したプロの技は素晴らしく、美しいが、どちらも、そもそもわたしたちが、生活の喜びの一部として、楽しむためのものである。

最初にあげた短歌は、そのことを歌っている。