人間らしく生きるゆとりをとりもどす

 つくろいものは、まだ終わらない。と言っても、繕うだけじゃなくて、あたらしいものも作っている。

「民宿 山の宿 あやの里」を始めます、と「最初の1ページ」に書いたが、コロナ禍のおかげで、幸か不幸か、まだ開館していない。それに、じつのところ、まだ準備がまったく整っていないのだ。

 繕い物は山を越えたので、これから、民宿用の布団の襟カバーや枕カバーを作るつもり。(民宿は定員最大8人。2階、和室3部屋と、キッチン付きの18畳の広間。築100年以上の古民家である。ちなみに、食事なし。自炊できる。一泊3500円。まだパンフレットもできていない。)

 ところで、15年以上前のことになるが、大阪の実家の、倉庫代わりにしていた建物を壊したときに、もったいないがり屋のわたしは、大型トラックを頼んで、じつにいろいろなものを明科の家に運んだ。古い木のベッドや、茶色に変色した桐の古いタンスほか、さまざまなもの。放っておくと、建物といっしょにゴミとして捨てられる。

 実家にいた姉が、「そんながらくた、やめとき」と言って、高い運賃を払ってまでして長野県に運ぶのを止めたが、あまりにも、もったいなかったのだ。それらはけっこう役に立った。そのがらくたの一部に、木綿の反物などもあった。 かくして、まだ残っている生地を、布団の襟カバーなどに仕立てたいとおもうのである。買うと、なかなかお高いのである。

 こんなことができるのも、コロナで、暇ができたからだ。実のところ、日頃何かと忙しくしていて、コロナのおかげで暇が出来て喜んでいる人も多い。

 娘も、収入は減るけど、ひまができてうれしい、とか言って、やはりミシンで繕い物などしているようす。先日、「これ、繕うてんで」と言って、作業用のブラウスをきれいに繕ったのを見せて、いばっていた。娘は竹細工を本職にしているだけあって、母親とちがって、仕上がりがきれいだ。

 娘は、「ヒマっていいわね。すばらしい」などと、のたもうていた。

 ちなみに、一人暮らしの息子も、鼻の部分をとがらせた複雑なマスクを、実にきれいにつくっていて、感心した。掃除機のゴミ袋で作ったそうだ。

 さてさて、浮世では、ミシンの売れ行きがよいそうだ。蟄居を強いられている人たちが、これ幸いと、わたしのようにミシン作業に精出しているのだろう。

 なんだかいい風景だ。ものをつくるのは、たかがマスクといえども、ただ買うよりもずっとうれしいものなのである。

 人はいま、忙しすぎるのではないのか。機械が進歩して、返って余裕がなくなったのではないのか。

 コロナ後の世界は、もう少し人間らしいゆとりのある世界でなければならない。