№13 ブログ頭と、ムダと無意味で満たされたわが人生 の巻

 

ブログなるものを始めてまだ日が浅いのに、このところ、すっかりブログ頭になっている。

頭の中で文章が走り回るのである。ちょっと難しいことも頭の中でしきりにうごめくのだが、むずかしいものはどうしても書くのに時間がかかる。たとえブログといえど、間違ったことは、できるだけ書きたくないからだ。

 

そうすると、ブログのせいで、暇なはずの日々がなんだか忙しくなってきた感じがある。あ、また自分で自分の首をしめてるな、と思うのだが、まあ残り少ない人生であるからして、ま、いいか、「けっこう毛だらけ、猫灰だらけ…。(以下は略シマス。)」などと、寅さんのせりふをつぶやいてみたりする。

 

とはいえ、読者はまだ若干一名。自分の娘だけである。読んでいる人は、ごくごく少ない。ちょっとわびしいなあ、と思うが、読者がいなくても、ブログ頭になってしまったので、次々に書くことが出てくるのである。

 

そもそもお金がないので民宿をやるべえと思ったはいいが、面倒なことがいろいろあって、ずいぶん時間がかかった、なかなか困難だったのである。それでも、今年なんとか県の許可にこぎつけた。それから、民宿のために、ホームページが要るかいなあ、と思って、無料のHP を立ち上げた。(まだ、何にも書いていない。)そのついでに、ブログもやろうと思って、また娘に無料のブログを探してもらった。

 

ところが、コロナのおかげで、民宿は当分の間開業できない向きになってきた。それに、準備もまだ整っていない。今年の開業はむりかもしれない。そう思うと民宿のHPはそっちのけで、ブログとやらに、頭が移行してしまったのである。

 

そもそも、娘に「お母さんの人生って、ムダと無意味でみたされてるのね。」と言われても、ホントだわい、と思うほどの、ムダと無意味と、さらには、失敗、過ちで満たされた、繰り返したくない人生であった。

 

娘のいう「ムダと無意味」は、たとえば、わたしが、一生懸命無駄なエネルギーを使わないようにとか、ごみになるものを使わないようにとか、環境を守るために努めていても、結局は、ムダと無意味も多いからである。

 

なにせ、小学校の時から、毎日忘れ物を取りに帰っていた「忘れ物の大家」であり、勤めていた時も、同僚から「トモリンさんの後について歩けば、物が拾える」とまで言われるうっかりものである。

方向音痴で、極めてニブイ勘をしており、車に乗っていて道を間違えて、ものすごく遠回りをしてしまい、ガソリンを無駄に使ってしまって、我ながら疲れて帰宅して、どこそこで、道まちがえてん、と娘に言うと、「エッ、そんなとこでまちがうなんて、信じられへん」とか、「また環境悪化に貢献してきたん?」とか言われる始末だからである。

 

また、せっかくお芝居に行っても、講演会に行っても、音楽会に行っても、必ず途中で居眠りをするからである。あ、テレビを見ていても、です。

 

それどころではない、数々の失敗、人生上の過ちも冒してきた、したがいまして、そういう意味で、わが人生、確かにムダと無意味でみたされていることについては、反論できない。

 

ところが、である。これが年の功であろうか。「人生って、そんなものさ」と居直ることを学んでしまったのである。

「居直り」ってすばらしいね。これを覚えてから、人生が楽しくなった。

 

そもそも、「生きる」ということ自体が、だれにとっても、けっこう並大抵のことではないのである。80歳まで生きたなんて、よくやった、と自分で褒めたいぐらいなのである。だから、「もうすぐ80歳やねん」と威張っている。(別にいばらんでもいいやん、とだれかに言われたような気がする…。まあ、それはそうね。)

 

その人の人生のつらさは、外から見ただけでは、わからないものである。だれしも、なにかしら、苦難をかかえて生きて来たのである。現在順調満帆に見える人が、実は過去に壮絶な体験をしていたことを知ることもあったし、逆にずっと順調満帆に生きて来た人が、突然の大きな不幸に見舞われるのも、見てきた…。

 

だれもが、失敗し、過ちを侵し、後悔することを持っている。そもそも人間って、大した生き物ではないな、ということが見えてくる。

人生とはわからないもの、そして、だれにとっても生きるとは大変だということが、わかってくる、これが、長生きしてありがたい、最大のプラスである。

 

かくして、わたくしめも、大きな失敗も深刻な過ちも、それはたくさんあった、けれど、まあ、いいや、みんなそうなんだから、と居直って、今がある。

 

年寄り万歳!と言いたいくらいなのである。