敵は使い捨て ものにもすべていのちがある

 なにしろもうすぐ80歳ですからね。変なボタンをおしたのか、昨日は、二度おなじものを投稿してしまいました。申し訳ありません。(まだ消し方がわからない。)

 山の中に住んでいますからね、ずっと車にも乗っていますが、次の免許更新時の記憶力テストがこわい。それでなくても、記憶力はよわいほう。最近は特に、新しいことは覚えられない。昨日は記事が書けたのに、きょうは、どうやったら記事が書けるのか、もう忘れてしまって、娘さんに(自分の娘ですが、頭があがらない。)教えてもらってやっとのことで、ここにたどり着きました。

 さてきのう、趣味、繕い物と書きましたが、これまではほとんど手縫いでした。と言っても、縫物が得意でも、上手でもない。その上丁寧でもない。大ざっぱな性格で、きちんと寸法を測るというのが、苦手。じゃあ、なんで繕い物が好きなのかなあ、とちょっと考えてみた。そして分かったことは、物を捨てたくない、もったいながり屋だということ。

 江戸時代と同じですね。

 下着なども、どうしても捨てなくちゃならなくなると、小さく切ってぼろ布にして、油汚れや、家の中のすごい汚ないところを拭くのに使って、そのあとやっと捨てる気になります。パンツのゴム紐の部分も捨てないで、何かを縛るのに使う、といった次第。

 だから繕い物に限らない。使い捨てのものは、すべて「敵」視してます。

 「物」にも命がある。そういう感覚です。

 そもそも、27年前、大都会大阪の5階建ての公団住宅から長野県に越してきたのも、あちらでは、生ごみをゴミとして捨てなきゃならないのが、とてもいや、ということがありました。団地の一斉草刈りで、ごみ袋に詰め込まれた草が山と積まれて、そのまま焼却場に運ばれるのが、見ていて苦しい。息ができない、と叫んでいるよう。草も土に戻せば、いのちを全うできるじゃないですか。

 団地の小さいベランダには、聞いたらどんな立派な庭園かとおもわれるほど、いろんな木を植木鉢で育てていましたわ。梅の木もミカンの木もありましたし、稲まで発泡スチロールの箱に植えたんですよ。そうしたら、ちゃんとお米が実って、綱を渡して干していたら、雀さんが食べにきたんですよ。鳥って、ほんとに目がいいんですねえ。たった一つかみくらいの収穫でしたけど。

 うちのベランダのこと、まるでジャングルのようね、と人に言われました。ですからね、長野県でも、街なかには住めません。