あやの里だより №35 帰ってきたブログ ー 雪の日

あやの里だより №35              2020年12月23日

           

いやいや、もう年末ですか。時は、ぜったいに止まりませんねえ、ほんとに。

このところ、またコロナどんがぶり返したので、出かけることも減って、なんだかヒマになり、このところ、久しぶりに読書にふけっています。

そこで、ご無沙汰していたブログさんとも対面してみました。

 

今年の冬は、何だか寒い。去年の冬はほとんど雪が降らなかったのに、今年はこのところ毎朝、ほんの少しですが積もります。山ぎわだからでしょうか。

寒いし、家にいることが多いし、毎日のように薪ストーブを炊いています。

ストーブは、前にここに住んでいた若い衆が据え付けたもの。

炊きつけは杉の枯葉。近くの道路ぎわに落ちているのを拾いにいきます。

枯れた杉の葉や松葉こそ、焚き付けに最適。松葉の枯れ枝もいいんですよ。

きょうも拾いにいって、どっさり持ってかえりました。「おじいさんは山へ柴刈りに」を地でいってますね。(前に、川のそばに住んでいた時は、流木を拾いにいきました。流木も、芯はよく乾いていて、とてもいいんです。)

杉の枯葉は、マッチ一本で、さっとつきます。

あと、細い枯れ枝があると、もうだいじょうぶ。かんたんです。

連れ合いが庭師で、不要になった木を持って帰るので、たっぷりあります。

でも、でっかい丸太を薪にこなすのは、重労働。働き者の連れ合いに感謝!

 

ストーブの前で、ガラス戸の外を眺めると、野原のような殺風景な庭にうっすらと雪が積もっています。

冬だなあ。冬は冬らしく寒くなくちゃ。

ガラス戸の外のベランダには、干し柿がつるしてあります。

今年は100個つくったのに、もうあと20個ほどしかありません。干し柿は、連れも好きなので、どんどん減ります。

ベランダには、娘の作った竹のざるに、薄く切った大根がほしてあります。立派な大根をいっぱいいただいたので、切り干しに挑戦してみました。干し大根、おいしいですよ~。

玄関前菜園のトマト畑のあとに、娘が穴を掘ってくれ、大根を埋めました。埋めた後土をかぶせ、地表にトマトの枯れ枝をおいています。これで春までだいじょうぶかな。

今年は、大根のほかに、娘や友だちやご近所さんやからいろいろいただいた冬野菜がどっさり。じゃいも、ニンジン、白菜、ネギ、カボチャ、そして、さつまいも。

ストーブの上には、やかんと、重い蓋つきの鉄なべをおいています。

この鉄なべは、パンも焼けるそうですが、焼き芋もできます。

サツマイモの小さい一本を、鉄なべにいれておくと、ほくほくの焼き芋が…。

焼き芋を食べにいらっしゃいと、誘いたい。

カブの甘酢づけも、野沢菜のお醤油漬けもつくりましたからね。大根の糠漬けと本格的な野沢菜漬けは、娘の作品。食べられるようになるのは、もう少し後。

でも、今年は、部落の新年会もコロナで中止。さみしいお正月ですね。

 

暑い大阪から長野県に移住して、はや28年。

年々暖かくなりました。夏も、大阪並みに暑くなりました。

厳冬の1月に、雪じゃなくて雨が降って驚いたのは、もう何年も前。

3月に咲くはずの梅の花が、なんと1月に咲いて、そのあとまた寒くなって、という年もありました。

以前は、屋根から太いつららが垂れ下がって、先のとがったつららがとけ落ちたらあぶないなあ、とひやひやしたものでしたが、今や、つららを見ることもなくなりました。

屋根に積もった雪がお日様にとけて、雪崩のように、どどどっと落ちてきて、びっくりしたものでしたが、そんなことも、ぐっと減りました。

 

雪かきが楽になったけれど、気候の異変をおもうと、ぎゅっと不安になります。

激しい気候変動やコロナ禍は、人類の終わりの始まりかも知れない…、などと思ったりもします。

コロナにどう対処するかという目前の対策は、とりあえずは必要だけど、今のままの生活をつづけていけば、再び別の感染症に襲われる可能性もあるわけで、これからのわたしたち人類のあり方を考えることこそ、最重要課題だと思うんだけど…。多くの人が、わたしと同じように思っているのではないかしら。

ストーブのあたたかさと窓の外の冬景色をゆったりと楽しむには、あまりにも不安の大きい現世です。

 

 ともあれ、いっぱい本が読めるのは、とてもうれしい。

子どもの頃から、なにしろの本好き。どんなに忙しくっても、なにか読んでいずにはいられない性分です。牢屋に入れられても、本があれば、しのげるかなあ。

でも、本を読むといっても、ほとんど寝ながらです。

起きているときは、やはりなにかしら仕事があって、読めません。どうしても読みたいときは、早寝、遅起きします。お布団に入ったまま、大事なところや気に入ったところに付箋をはり、線を引き、本の余白に書きこみをします。器用でしょ!

読みたくてたまらない本があると、眠いのを一生懸命こらえて読みます。結局寝ちゃうんですけどね。夜中にトイレに起きたら、また本を読みます。またまた、電気をつけたまま、寝ちゃってるんですけどね。

本もよく読むけど、よく寝る人でもあるんです。 

夜中はストーブも消しますから、ぐんぐんひえてきて、本を持つ手がかじかみます。なので、寝るときは、手袋をして、マフラーをして、マスクもして寝ます。

こんなに一生懸命読んでも、ほとんど忘れちゃうんですけどね!

気がついたら秋になっていた

 前のブログから、一ヶ月半。追われる仕事が一段落して、出かける予定もないし、というので、ひさしぶりに「あやの里だより」さんと対面しました。

 

 忙しかったんです。80歳になったというのにねえ。いやです、困ります、と言っても、仕事が来る。自業自得なんですけど、このごろはもう腹をくくって、死ぬまでやるしかないか、なんて思っています。平和を残すための仕事ですからね。

小冊子の編集の仕事とか、市民活動のさまざまな文書をつくる仕事です。

これまで、わたしの大好きな日本国憲法さまのもとで、戦争なしに暮らしてこれたんですから、その恩返しですかねえ。

 でも、「もうすぐ死ぬんだから」、そんなに長い間じゃあありません!

 

 忙しいって言ったって、ちゃんと面白いドラマは見ています。

先だって、NHKのBSの5回連続ドラマで、『もうすぐ死ぬんだから』というのがありました。

最近録画機を買ったので、夜遅い番組もみられるようになりました。

深夜のいいドキュメントも、見られるようになったんです。

 

三田佳子扮する78歳の主人公が、急死した夫の死後、なんと、夫がもう一つの家族を持っていた、という衝撃の事実に見舞われます。

とても仲のいい夫婦で、夫は、妻を大事にしてくれたし、「不倫」など、毛ほども疑う余地がないような人だったのに。

その隠し妻は、夫の、若くして死んだ親友の妹だったんですね。

 

でも、じくじくしたお話じゃなくて、裏切られた主人公は、決然と夫と「死後離婚」して、そのあと、変な成り行きで、なんと隠し妻とその息子(もう大人です。)とも和解していくという、とても痛快なお話なんです。

(ちょっとできすぎた話ではあるのですけど。ふつうだったら、隠し妻と対面したら、修羅場になるところですよね。)

 

とまれ、夫だって生涯秘密を守って、好きなように生きた、自分も「もうすぐ死ぬんだから」やりたいように生きることにするんです。そして、息子が親から引き継いだ酒屋で、「角打ち」という、立ち飲みのお客の接待の仕事を始めることになる、という物語。

 

わたしのやりたいことはなんでしょうね。

まあ、やりたいことをやってきましたので、これまで通り、なんとか体が動く限り、やれることをやっていく、ということでしょうかね。

 

でもね、新しい、たのしいことも始めましたよ。「畑」です。

7月11日のブログ「梅雨と畑とホタルの巻」に、玄関前で畑を始めた、ってちょっと書いたんですが、足の悪いわたしにとって、玄関前菜園は大成功。

 小さな畑ですが、とても立派な収穫がありました。

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 まだトマトは、毎日少しずつ赤くなります。玄関のすぐ前のトマトは、ジャングルのように茂りました。(写真右)

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 シシトウも毎日少しずつとれます。

 ナスは、あまりとれなくなりましたが、もう少しの間とれそうです。

キュウリとウリは、寒くなっておわりました。けっこうとれたんですよ。

 

これに味をしめて、草っ原になっている庭に、大根の種をまきました。斜面なので、畝もつくらないでいいらしい。種をまくところだけ、草を刈りました。

大根葉が少し大きくなっていますが、何しろの山なので、いつも鹿がピーピー鳴いています。鹿に喰われないように、家のそばに転がっていた、道ふさぎなので切り倒してある竹を、大根畑の周囲に置きました。

ほんとうなら、鶏をかいたいところですが、こんなにヨボヨボになってしまっては、無理なようです。来年はもっと衰えているでしょうからね。とても残念ですが。

実家の「あやの里」で飼っていた鶏は、ものすごく元気で、人懐こい鶏たちでした。わたしが庭に出ると、寄ってくるんです。鶏にも「心」がありますよ。

 

枝豆をつくっていると、近くの友人に聞いたので、来年は枝豆もつくろうと、むらむらと意欲がわいてきました。(なにしろ7食い意地が張っていますからね!)

畑って、ちっとも忙しくないんですよ。草もぼうぼうでもいいし、肥料もやらないし、それでも、実ってくれる。採集にちかいですね。

縄文人って、ヒマだったって、聞いたことがありますが、縄文式はたのしいですね! 文明は、人を幸せにしたか? って思いますねえ。 

夏をのりきるために ー最強の、不思議なカレー

 大阪に住んでいた子供のころのように、のどにあせもができそうな、汗だらだらの日がつづきましたが、昨夕のはげしい雷雨で、やっと涼しくなりました。

(暑いのが苦手で、涼しい信州に移住してきたというのに、この暑さは何?)

 

 あまりに暑いので、このところ、ソーメンやソバを食べることが多いのですが、お昼は、一人なので、残り物をいただきます。

暑い時はカレーですよ。カレーは、ほぼ毎日。

 カレーは、不思議と食べ飽きないのですね。 

 わたしは、とにもかくにも、ゴミを出さない、添加物はとらない主義なので、

カレーも、ルーは使わず、自分で作りますが、今冷凍庫に、カレーを入れた大きめのビンが三本も入っています。

 

 自分で作るたって、面倒なことはしません。なんでもカンタンがモットー。

ただ、わたしにとって、おいしいカレーのコツは、二つあります。

 1つは、骨付き肉を入れること。骨付き、と言えば、鶏肉しかありませんが、骨付きの、半額とかを見つけたら、買っておきます。

 

 実は、5年ほど前、73歳のとき、ロシアのウラジオストクに、一年間語学留学に行きました。そこの市場の肉屋のお兄さんは、たぶんウズベク人だと思いますが、大きな丸太の台の上で、牛肉の塊(かたまり)を、でっかい斧で骨ごとぶった切って、必要なだけ売ってくれるのですね。豪快でした。豚肉は見かけなかったような気がします。

 あちらでは、そもそも肉はみな、塊でしか、売っていません。スライスなんて、お上品なものは、見当たらない。鶏肉やさんも、一羽丸ごとか、少なくとも塊で売っています。チーズだって、塊ですよ。ケーキやパンまで、必要なだけ切って売ってくれます。ウラジオストクの市場は、ほんとにたのしかったなあ。

(そもそもスーパーはきらいです。昔の大阪の、活気のある市場がなつかしい。)

 

 この骨付き肉で、ロシアのボルシチとか、カレーとかを作って、学生寮のわたしの部屋で、若い人によくおごちそうしました。もちろん、国籍を問わず、です。

 骨付き肉を入れて、肉が骨からはがれるくらい、やわらかくなるまで、コトコトと煮ます。すると、断然おいしい。スープの素なんか、足元にも及びません。

 

 もう一つのコツは、これは、娘に教わったんですが、ニンニクとショウガを最初に炒めますが、そのあと玉ねぎを茶色になるまでよく炒めること。これで、ぐっとコクを増します。コクが足りないと思うときは、味噌をたしたりもします。

 あとは、野菜は何でもいれて、最後に塩とカレー粉を鍋に入れておわりです。

まあ、ルーよりはたいへんでしょうかね。大豆カレーにすることも多いです。

 ほんとうは、トマトをたくさん入れると、おいしいのですが、トマトがお高い時は、梅酢を入れたりします。一寸酸味がある方がおいしいんですね。

 

これからが、最強の、不思議なカレーなんです。

カレーが減らない。減らないどころか、増える!

そのわけは、味噌汁があまったら、カレーに入れる。かぼちゃの煮物の汁があまったら、入れる。魚の炊いた汁が余ったら、入れる…。魚介類を入れるカレーもありますからね、魚の汁を入れても、大丈夫なんです。そして、カレー粉を足します。カレー粉が少ないときは、粉唐辛子をいれたりもします。

 

とにかく、食べられるものを捨てるのがいやな性分。そういう余り物は、すべてカレーに注ぎ込む。キャベツの芯なども、入れますよ。

すると、とても複雑な味になって、おいしいんですよ!

お客様に出すのは、何が入っているかわからないので、ちょっと躊躇されますが、家族が食べる分には、上等です。

今、トマトが最盛期で、安く出回っています。こんなときに、出た!びんづめバーサマ。トマトの水煮をつくっておきます。

かんたんですよ。トマトを煮て、瓶に入れて、煮沸するだけ。カレーの時に、重宝します。トマトのびんづめなんて、買うとお高いですものね。 

 

 ついでに。そもそも、人類は、共同・協力することで、生き延びてきた、とブログに書いてきました。「共同繁殖」、子育ても共同でする動物だということも書きました。

さらに人類は、常に「共食」だったんですね。

 火を囲んで、みんなで協力して獲った食べ物を平等に分け合って、いっしょに食事していた。なんだか、たのしそう。

 

 そういう文化的遺伝子があるのかどうか、わたしも、ほかの人と一緒にご飯を食べるのが好きなんですね。

 子どもの頃、5人きょうだいで、いとこや叔母もいて、大家族だったので、いつも、大人数で食事していました。ごはんだよ、と言われると、何をしていようが、とんで行かなければならなかった。自分勝手はゆるされない。それが当たり前だったんです。そして、トマトが小さい一かけらでも、不服にも思わなかった。

前にも書きましたが、トマトを一個丸ごと食べたい、というのが、夢だったんです。あの頃をおもうと、今はずいぶん贅沢になりました。

こんなカレーでよろしければ、いつでも、おごちそうできますよ! 

80歳でツイッター♪  はじめたばかりで、挫折?

 

あやの里だより №32             2020年8月23日

             80歳でツイッター

         はじめたばかりで、挫折?

 

 

ときどき、若いお友だちのU子さんが、お嬢ちゃんのRちゃんを連れて遊びにきてくれます。

福島原発事故の後、東京から避難して見えた人です。東京にも、当時、相当放射性物質が降下していたんですね。

 当時、まだ3歳くらいだったお嬢ちゃんも、事故後9年たって、今年中学1年生になりました。

 

 U子さんは、私にとって、とても元気の出る、賢い友だちです。うちの娘もそうなんですが、彼女ら、若い世代(と言っても50歳前後ですが)は、未来に希望を持っているんですね。

 コロナ後、様子が変わってきた、と彼女は言います。いい方向への流れが始まっていると。

 

 中一のRちゃんの学校で、何の時間でしたか、生徒たちが「ジョーモン時代のほうがいい」と言ったそうです。へえ、そうなのか、と思いました。

 子どもたちも、今の競争一点張りの、息苦しい時代への拒否感があるのですね。

これは、まっとうな感覚です。

 このRちゃんとも、友だちです。Rちゃんも、かしこい、たのもしいお嬢ちゃんなんです。将来の夢は、首相になること! そうなったらいいですねえ。

 

このU子さんから、先日、ツイッターを勧められたんですね。

ツイッターというものがあることは知っていましたが、自分には無縁だと思っていました。でも、そのほうがブログの読者も増えますよ、とのことで、試してみたら、ものすごく簡単だということがわかりました。

 

何かしら「書く」のは、自分の中にいろいろたまってくるものを、吐き出したいからですが、おしゃべりと同じで、読んでくれる相手がほしいわけですね。

「書く」のは、しゃべるよりも、複雑なことを吐き出せます。自分の中にもやもやたまっているものを、整理する意味もある。

 生きる上では、だれしも何かしらの違和感を感じながら生きているわけですが、齢(よわい)80歳となって、ますます違和感深まっている。

 それを、できれば多くの人と共有したいと思う…、そういう感じでしょうか。

 

 ところが、ブログやツイッターを始めると、パソコンに向かう時間が増えてしまいました。

 なんだか、前より目が悪くなってきたような気がしていました。

 そのうち、いやに歯がしみるようになってきました。

 2週間たっても治らないので、歯医者に行ってみましたら、この歯痛は、虫歯ではなく、肩こりから、肩こりは目からきている、と言われました。 

 そういえば、最近、今までなかったような頭痛も時おりありました。別にストレスもないのに、なんで肩が凝るんやろ(大阪弁)、と思っていました。

 

 すべてが衰えるこの年齢になって、新しいことを始めた罰なんでしょうかね。

やりだすと、夢中になる性質なので、だめなんですね。

おまけにコロナで、書きたいことは増えるし、出かけるのは減るしで、パソコンに向かうことが増えたんです。

 

ブログ、と言っても、公開するまでに、何日かあたためておきます。言い足りなかったり、まちがったことを言ってもいけないので、何度も書き直します。

自己紹介でも書いていますが、「平和の種」という隔月刊の冊子の編集もしています。一人でやっているのではないのですが、その仕事も始まったんですね。この編集という仕事、なかなかやっかいで、結構時間がかかります。

 

歯医者さんに行って、歯痛のわけがわかってからは、パソコンに向かう時間を減らしていますが、それでも肩こりと歯痛は治りません。鈍痛があるって、いやなものです。歳をとるって、こういうことなんですね。

 

「年はとりたくないね」と、実家「あやの里」のお隣のおばさんがよく言われていました。ご養子とりだったので、生まれもここ。山の中。藁ぶき屋根をトタンで覆ってある古い民家です。農家のならいで、トイレは外にあります。

お連れ合いを20年ほど前に亡くされてからも、96歳まで一人暮らしでした。98歳の今は、施設で過ごされていますが、とても気丈で、はたらきもの。それはそれは、しっかりした方でした。昔の人って、ほんとにすごい!

 お若い頃、と言えば、もう80年近く前になるでしょうか。結婚前まで、福島県の紡績工場で、女工さんたちの先生をしてらしたのです。80歳ごろまで、紡績工場の元先生なかまで、時々遊びに出かけていらっしゃいました。

 

わたしも娘もよくお茶をごちそうになって、そんなおもしろい話をたくさん聞きました。お野菜などもどれだけいただいたか知れません。

 

 時は止められません。

ブログもツイッターも、はじめたばかりで早くも挫折しそうですが、まだお隣のおばさんよりは多少若いので、あとしばらくの間発信していこうと思います。

コロナ後の世界 その5 子育ても共同で&「おばあさん仮説」

 人類の歴史について多少勉強したことを、№26のブログで書きましたが、

人類は、およそ700万年にチンパンジーと枝分かれして、二足歩行を始めたんですね。その前は、アフリカの密林の樹上で、果実とか虫とかを食べていた!

700万年のあいだ、人類はアフリカから世界中に広がりましたが、その間、20種類ほどの人類が誕生しては、滅亡した。そして、わたしたちの直接の祖先であるホモ・サピエンスが誕生したのは、ほぼ20万年前。

人類の歴史の700万年からすると、ほんの最近出現した新しい種ですね。

そして、わたしたちホモ・サピエンスは、最後の人類なんです。

 

密林からサバンナ(草原)に進出した人類は、危険な肉食動物が徘徊(はいかい)するサバンナで生き残るために、協力・共同する以外、道はなかった。獲た食べ物も、平等に分け合った。そうやって集団の力を維持することによって、生き延びてきた。人類が生き延びることができたキーワードの第一は、「協力・共同」と「平等な分配」だったのですね。

 

自分勝手で、ヒトを傷つけても平気な人間を「ひとでなし」というではありませんか。やさしい人を「にんげんてき」と言ったりするでしょう?

場面によっては、ヒトも、利己的で残酷にもなります。でも、ほんらいヒトは助け合うものだ、ということを、わたしたちは、ちゃんと心得ているのですね。

 

さて、「協力・共同」ということですが、人類は、子育ても「共同」でおこなったんですね。母親だけで子どもを育てる種とか、両親だけで育てる種とか、種によって子育ての仕方が違うそうですが、人類は「共同繁殖」の種なんだそうです。

つまり、人類は、母親だけでなく、父親、祖父母、きょうだい、その他、血縁関係のないものもふくめて、共同で子育てしていた。

大きい脳を持つ人類の赤ん坊の脳が大人と同じ重さになるには、7年かかる、でも、体が大人になるまでにはもっと時間がかかります。人類は、一人前になるまでに非常に手がかかる種だったからです。

 

ところで、特にヒトの女性の繁殖力は早く終わりますよね。月経がおわるのが50歳前後。でも、子どもを産めなくなっても、女性は元気に長生きしてきました。そのような種は、ほかにはないそうです。

もともと人類は長生きの種で、70歳くらいまでは生きるようになっていて、いつも一握りの年寄りは存在していた。先日ある本を読んでびっくりしたのですが、江戸時代に、杉田玄(げん)白(ぱく)という学者がいましたね。『蘭学(らんがく)事始(ことはじめ)』という本を書いた時、杉田玄白は、なんと83歳だったそうです。すごいですね!

(『自然に学ぶ』白川英樹著 法蔵館刊 2020年)

 

ところで、女性は男性より長生きですよね。

「おばあさん仮説」というのがあって、女性が長生きなのは、進化論的には、ヒトの子育てがあまりにも負担の大きい仕事なので、年寄りの支援が必要であったため、とする説ですが、学界でも有力な説なんだそうです。

 

 たしかに、孫はかわいい、と言いますね。わたしには、孫はいないのですが、若い友達が子どもさんをつれてくると、うれしくて、かわいいのですね。

わたしも、働いていたので、二人の子どもは保育所育ちですが、何かあるたび子どもの面倒を、実家の母にみてもらいました。母が、孫たちにしばらく会わないでいると、のどがガリガリするほど会いたくなる、なんて言っていたのを思いだします。祖母の役割があったんですねえ。でもまあ、年寄りには孫の世話は大変なので「孫は来てよし、帰ってよし」とも言いますけどね。

 

ですので、現在、核家族が一般的になり、社会の中で共同の姿がうすれて、子育てが母親だけの責任にされがちですが、それはまちがいなんですね。

親だけの責任にしない、子育てのネットワークが必要だと、人類学者の長谷川真理子さんは言っています。

「人類学、進化生物学の観点から見ると、親ばかりではなく、子どもを取り巻く社会のネットワークがうまく機能し、健全な共同繁殖の成り立つ社会づくりをすることが非常に大切であると言えよう。」

(『世界は美しくて不思議に満ちている』長谷川真理子著 青土社

 

じっさい、わたしの子どもの頃(70~80年前!)は、どこの親も忙しくて、働くばっかり。三女のわたしも、物心つくまでは、母親が背中におぶって仕事していた。なにしろ、洗濯機も炊飯器もありませんからね。

少し大きくなると、わたしは、ご飯を食べ終わるや否や、脱兎(だっと)のごとく外に走り出て、近所の子たちと、道路であそんでいた。(大都会大阪ですからね。) 

戦争中で、幼稚園にも行きませんでした。親なんて、どこにいるのか、気にしたこともなかった。母親が、「まあ、この子は、ひたむきに遊ぶ子だ」って思ったそうです。

 

子育ての極意(ごくい)は、「心にかけて、手をかけるな」と言います。わたしが思いきり外で遊べたのは、背中に親の愛情を感じていたからだったのでしょう。

 

コロナ後の世界は、協力・共同・連帯と、平等な分配、そして、子育ても共同、そんな社会でなくてはならないと思います。

後の世界を考える 4  核兵器のない世界へ  

 核兵器保有国は、現在9カ国。でも、たくさん核兵器を持っている国は、国連常任理事国であるアメリカ、ロシア、中国、フランス イギリスの5カ国。

総数13400発。その9割は、アメリカとロシアが保有しています。それに比べると、北朝鮮核兵器など、赤ん坊のようなものです。

 

 今年は、1970年の核拡散防止条約(NPT)の発効から50年。日本も批准しています。NPTは、上記の5カ国以外は核兵器を持つことを禁じていますが、そのかわり、核軍縮について「誠実に交渉を行う」としています。

 

ところがここ数年、核大国は、核軍縮どころか、より高性能の核兵器や、使いやすい? 小型核兵器の開発と配備を進めています。(いつ使うの!)

そもそも、核兵器を持つのは大国だけの特権で、ほかの国は持つな、というのは、大国のエゴでしかない。人を納得させる道理はありません。

 

先ごろ、トランプ大統領は、核開発を「すばらしい偉業」だったと称賛。(7/16)ぞっとする話でした。アメリカは、核実験の再開も検討していると聞きます。

コロナ禍の収束のためには国際的に助けあうことが求められているのに、核戦争の危機は強まって、アメリカの科学誌(BAS)は、今年、地球滅亡までの時間を示す「終末時計」を、これまでで最短の“残り100秒”としたそうですね。

 

一方、8月5日、アメリカの「ロサンゼルス・タイムス」が、「日本を降伏させるために原爆投下は必要なかった」という、歴史学者らの論説を掲載しました。

結局アメリカが日本に原爆を投下したのは、大戦末期、米ソ冷戦の萌芽(ほうが)の中で、ソ連を抑え、世界の政治動向の主導権をにぎるためでした。そのことは、日米の歴史学者の間では、とっくに決着のついていた事実だったのです。

(『原爆はこうして開発された』山崎正勝 日野川静枝編著 青木書店 1997年。※10人の学者の共同執筆。お勧めです。)

いったん核戦争がおきると、敵も味方もありません。もし、核兵器を持つこと

が、ほんとうに核戦争を予防するための「抑止力」だというなら、すべての国が核兵器をもてばいい、ということになるじゃありませんか! 

核兵器保有は、大国の力の象徴。他国への威圧、脅しの武器にすぎない。だ

からこそ、大国は、核兵器を手ばなそうとしないのです。

 

ところで、「抑止力」のためというまやかしが通用するのは、未だ世界が、金持ちで大きな軍事力を持つ大国に支配されているからではないでしょうか。

この状況に対して、立ち上がったのが小国です。

2017年に、122カ国の賛成で国連で採択された「核兵器禁止条約」は、核兵器の開発、実験、製造はもちろん、備蓄、よその国への移譲、そして使用、威嚇のための使用も禁止。核兵器の完全な廃絶を目指す、ものすごいものです。

核兵器禁止条約」は、すでに44カ国が批准。あと6カ国の批准で発効。年

内の発効が予想されています。発効すれば、人類史の転換点になるでしょう。

 

ところが、日本政府は、唯一の被爆国でありながら、核兵器禁止条約に後ろ向きです。それどころか、今自民党は、コロナ禍をよそに、「敵基地攻撃能力」つまり、こちらから先に攻撃する能力の保有に向けて、軍事力アップに血道をあげているのです。

最強の軍事力といえば、核兵器です。日本で長年政権にある自民党は、戦争を禁じた憲法9条がありながら、「抑止力」として核兵器を持てる、と明言してきました。「大国」として核兵器を持ちたい、と考える勢力が、私たちの国を支配してきた、ということになりましょう。

 

世界の圧倒的多数の国は、核兵器など持っていません。

コロナ禍後は、大国の支配ではなく、小国の連帯とネットワークが世界を動か

すものになっていかねばならないと思います。国内でも、市民の連帯とネットワークによる政治へと転換しなければならないように。

 

わたしたちヒト(ホモ・サピエンス)は、38億年続いてきた生命の歴史の末(まつ)

裔(えい)。すべての生命はあらん限りの力で、自分のいのちを生きてきました。そうであるならば、ヒトも、自らのいのちの危険を回避するために全力を尽くすだろうと思います。そこに、わたしたちの希望があるのではないかしら。

NHK広島が、被爆75年にあたって調査したところによると、アメリカの若者(18~34歳)の7割が、そして日本の若者の85%が、核兵器の所有は必要ない、と答えたそうです。(8/3)

 

この8月、松井広島市長も、田上長崎市長も「平和宣言」の中で、日本政府に対して、一日も早い「核兵器禁止条約の署名・批准」を迫りました。

2017年にノーベル平和賞を受賞した核廃絶国際キャンペーン(ICAN・アイキャン)のベアトリス・フィン事務局長(35歳の美しい女性です。)は、初来日してこう述べました。

「日本は核兵器使用の実情を知っているにもかかわらず、(核の傘の下にいる

ことで)他国にも被害が及ぶことを事実上容認している。被爆者の体験と原爆の教訓を無視しているという意味では(保有国と)共犯だ。」(時事通信 8/7) 

 

核の傘を容認することは、核兵器を、軍事力として認めることであり、核戦争を容認することにほかなりません。

政治をわたしたちの手に取り戻さなければ、と思います。 

盛んなるかな生命の世界  人間だけの一人勝ちはない

世界は異常な暑さに襲われている。周囲を緑で囲まれているわが家でも、室内で32度に達する暑さを記録した。なんナンデスカ、この暑さは!

 

 大阪から越してきた28年前、夏の終わりには、ストーブを炊こうかしら、とおもうほど、肌寒かった。大阪で使っていた夏用の衣類は、長い間使うことがなかったが、最近になって使うようになった。大阪並みの暑さに襲われるようになったからだ。

 それでも、窓も戸も開け放った家の中では、風がさやさやと吹き抜けて、夏らしい涼しさがほんとうに心地よい。

 窓を開けることもできない過密都市の暑さは、耐え難いだろう。

 

 20歳過ぎまで暮らした大阪の生家は、4車線の大きな道路に面していた。でも車の量は、今とはくらべものにならないほど、少なかった。

子どものころ、夏は戸をあけ放ち、おかげで砂埃誇りが舞い込んで、朝夕廊下の拭き掃除をしなければならなかった。

 5人兄弟だったから、夜は、何人かのきょうだいといっしょに蚊帳の中で寝た。

汗っかきで、のどにあせもが出て、いつも白いシッカロールというやつを、パタパタとおしろいのようにつけていた。

 今その実家に姉が住んでいるが、窓も戸も固く閉ざして、冷房をつけている。

 

 28年前に長野に移住したころ、冷房をつけている家などまずなかった。でも、何年か前から、冷房機をつける家がふえてきた。駅前の電気屋さんが、冷房機の取りつけの仕事が増えてね、と言っていたのは、もう数年前だ。

お連れ合いが亡くなったあと、松本市内で一人暮らしをしている親しい友人が、冷房は要らないと言っていたんだけど、都会に出ている子供たちが、冷房をつけろと言ってつけてくれたのよ、と言っていたのが一昨年だったか。 

 

一方、生き物の世界では、この暑さを謳歌しているように見える。

雑草のいきおいがものすごい。わが家の玄関前の小さい畑でも、畝もつくらず、肥料もやらず、草もあまり抜かない「自然農」なのに、野菜の苗たちはみるみる伸びて、キュウリもとれるようになった。

キュウリ採ろうとをして、枝葉に分け入ると、わっとクモの巣が顔にかかる。クモたちは、大小とりまぜて、大繁殖している。食べ物になる虫がいっぱいいるんだろう。

ちょっと困るのが、蜂である。

ミツバチに刺されても、それなりに痛いものだが、アシナガバチは、スズメバチの一種で、さされると危険だ。

アシナガは、思いがけない所に巣をつくっていて、うっかり彼らの縄張りを荒そうものなら、急襲してくる。これまでに、二度刺されている。

刺された瞬間は、ドン!という衝撃を受ける。目の上を刺された時は、目のまわりがお化けのように腫れあがった。二度目に腕を刺された時は、丸太んぼうのように腕がパンパンに腫れて、お医者さんに行った。

 

ひょっとして、と思ってベランダを探してみたら、あった!ベランダの軒下の、見えにくい所に、10センチ四方ほどのでっかい巣ができている!

そういえば、このごろ洗濯物を干そうとしてベランダに出ると、アシナガが一匹ふらりと飛んできたりしていた。あれは、偵察部隊だったのだ。

わたしは、殺虫剤などは使わないことにしている。そこで、長い竹ざおを使って、おっかなびっくり、へっぴり腰で、巣を叩き落した。

でも、スズメバチは強力で、次の日にはせっせと巣の再建をしている。ベランダに出ると、警戒のために、今度は数匹がとんでくる。洗濯ものも、干せない。

 

致し方なく、連れに、殺虫剤で殺してもらった。使わない原則の唯一の例外である。「蜂に悪いけどな」と連れは言う。

アシナガも、生態系の一員である。人間の都合で「害虫」とか、「害獣」とか決めつけるのは、傲慢だと思っている。

今のコロナ禍にしても、異常気象にしても、いわゆる科学技術の「進歩」で、「便利」で「清潔」な世界を進めてきた人間の傲りへの「警告」であり、「復讐」であると思える。

 

先ごろ、生命科学者の中村桂子さんのエッセイ集を読んだ。

「生き物は、それぞれが懸命に生きているのですが、その結果どれもがそれらしく生きられるようになって続いてきました。それを支えているのが多様性です。他がいなくなれば、自分も生きられない。生きるために他のものを食べたり、戦ったりはします。でも、一人勝ちはない。皆がそれぞれ生きていて、皆がいないと成り立たない。一人勝ちを考える人間は賢いようにみえて、賢くないのではないかな。」

「現実の社会は、医療から犯罪までAIとやらに振り回されて、人間が自分で考えることを止める恐い世界に入りつつあります。この方向に行ったら人間はおしまい。みんなでよーく考えて欲しいのです。機械にふり回されず幸せに生きる道を自分たちで探そうと。

(『残す言葉 中村桂子 ナズナもアリも人間も』 平凡社 2018年)

 

世界は「皆がいないと成り立たない。」人間だけの一人勝ちはないのだ。