韓国映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』― 希望は民衆にあり

 先日BSで、韓国映画『タクシー運転手』を見た。今年、韓国映画の『パラサイト 半地下の家族』が、アカデミー賞の栄誉に輝いたが、この『タクシー運転手』も、アカデミー賞に出品した映画だったらしい。 

監督はチャン・フン。主演はソン・ガンホさん。ユーモアを漂わせながら、平凡なおじさん役をみごとに演じている。韓国では2017年に、日本では2018年に劇場公開されて、ものすごい人気だったようだ。

映画の舞台は、1980年、韓国の光州で起きた、平和な民衆のデモに対して、軍が発砲し、多数の死傷者を出した、いわゆる光州事件である。 

朝鮮の近代史は暗い色にぬりつぶされている。地勢的に大国(ロシア・中国、そして日本)のはざまに位置するゆえに、呻吟しなければならなかった。

明治維新後の日本は、いち早く欧米の文明にならったが、他方、欧米の植民地支配もまねて、台湾・朝鮮・中国への侵略を推し進めた。1868年の明治維新から、1945年のアジア・太平洋戦争終結に至るまでずっと、日本は戦争ばかりした時代だったのだ。 

アジア・太平洋戦争終結しても、朝鮮人の苦しみはつづいた。日本の敗戦で、35年間にわたる日本の植民地支配から解放されてほっとしたのもつかの間、1950年から53年まで、死者500万人にも達する凄惨な朝鮮戦争を体験しなければならなかった。この朝鮮戦争も、米ソの代理戦争だったと言われる。

 しかも、朝鮮戦争後、北と南の二つの国の分断は固定化され、親族の間で引き裂かれるという苦しみ、さらに韓国では軍事独裁政権による圧迫の苦しみにも耐えなければならなかった。

それでも、朝鮮・韓国の歴史を少し勉強すると(たとえば、岩波新書の『新・韓国現代史』〈文京洙著 2015年〉)、韓国の民衆が、植民地支配に対しても、軍事独裁政権に対しても、実に果敢に抵抗をつづけたことがわかる。韓国の人々の抵抗精神は、長い間の苦難に鍛えられた筋金入りのものなのだ。 

この映画の舞台となった1980年といえば、その前の年に軍人出身の独裁者・朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が側近に暗殺されたあとで、今度は全斗煥(チョン・ドゥファン)中将が政権を掌握しようとしていたころ。

全斗煥は全国に戒厳令を敷いたのだが、これに対する抵抗運動が特に根づよかったのが、韓国南西部の都市・光州市だった。結局、平和なデモに対して陸軍が投入され、無差別に発砲。

韓国政府が20年後に発表したところでは、民間人の死者数は168人、行方不明者は406人。軍と警察の死者数は27人だったそうである。

 

『タクシー運転手~約束は海を越えて~』は、事実にもとづいて創作された作品らしい。

主人公のタクシー運転手キム・マンソブは妻に先立たれ、一人で10歳くらいの娘を、大切に育てている。しかし、貧乏で家賃もためて、家主に請求されている。困ったマン・ソブは、いい儲け話を小耳にはさんで、ちゃっかりその客を横取りする。

その客とは、ドイツ人記者ピーターだった。かれは、取材のため、光州に行こうとしていた。ところが、軍事政権は光州で起きたことを徹底的に隠蔽しようと、光州に入る道をすべて封鎖している。二人は、それをなんとか突破して、光州にはいる。

光州の街は、市民の抵抗のあともまざまざと、荒れ果てていた。政治的な関心のまったくない平凡な市民だったマン・ソブだが、若者たちとたのしく交流したり、さらにかれらが虐殺される現場を目の当たりにして、義侠心を募らせる。

この現場を、世界に知らせなければならない!

 

そして、マン・ソブも、ピーターが撮影した虐殺の現場のフィルムを封鎖を破って持ち出すために、ついに、命がけの協力をするようになるのである。ほかのタクシー運転手たちも、捨て身で二人の脱出を手助けする。自らの車は銃弾を浴び、あるいは横転しながら、マン・ソブの車の盾となり、追っ手をかわす。映画の通りではないらしいが、タクシー運転手たちが活躍したのも事実だそうだ。

 

この映画は、権力というもののすさまじさを描くと同時に、マン・ソブや、若者やタクシー運転手たちという、平凡な市民がいかに人間らしく生き、また闘ったかを見事に描いて、感動を呼ぶ。

希望は、人、民衆にある。いつの世も、どこの世もー。

映画はそう語っているように思えた。

 

ところで、わたしは1940年、太平洋戦争勃発の1年ちょっと前、大阪の下町で生まれた。そして、1947年に、あたらしい憲法の下で、学校にあがった。

同級生には、朝鮮人の子が何人もいた。でも、みんな仲よくしていたし、周りで差別的な言動を見聞きしたことは皆無だったので、かえって朝鮮人の、異邦人としての苦しみには気がつかなかった。 

 

近所の朝鮮人の金本君の家は溶接やさんで、よくおじさんが店先の道路で、透明のお面を手にして、火花を防ぎながら溶接をしていたものだ。

筋向かいの藤木君は、父親が戦死して、お母さんが一人っ子の藤木君を育てていた。上品なお母さんだった。彼は勉強がよくできたのに高校に進学できなかった。戦争の傷跡が色濃く残るころだった。